第25話 値札のない一日
残り三周。俺が仕掛けたのは、壁坂じゃなかった。
壁坂を越えて、下りきった、直後。
理屈は単純だ。登りでは全員が削られる。下りでは全員が少し回復する。ただし回復の量が違う。下り四十秒で、他の七人は「マイナスが少し戻る」。俺は「ほぼ満タンに戻る」。つまり——下りきった瞬間が、俺と全員の残量差が最大になる瞬間だ。
仕掛けどころは、坂の上じゃない。坂の下だ。
踏んだ。
全員が「回復の途中」で、俺だけが「回復の完了後」。この差は、速度差になって現れる。振り向かなくても分かる。背後の車輪の音が、一つ、また一つ、遠くなっていく。
三つ目の音が消えて、二つ目の音が消えて——最後に、一つだけ残った。
消えない音が、あった。
「——お前、そういうことしてたのか! 下りで回復してたのか!」
御影だった。俺の真後ろ、車輪半個分。声が、笑っている。
「今ごろ気づいたのか!」
「気づくかよ! 普通、下りは休みじゃねえ、我慢だ!」
残り二周。先頭は二人になった。朝五時の霧のバンクが、そのまま昼のサーキットに出張してきたみたいだった。俺が引き、御影がなぞる。半年間、逆の並びで数え切れないほどやってきた朝の続きを、初めて、俺が前でやっている。
だから、分かってしまった。
背中の音が、いつもの御影じゃない。
ペダルのリズムに、ほんのわずかな濁りがある。五十キロの消耗は、天才の身体からも、確実に徴収している。俺の背中で覚えたはずの無風でも、取り返しきれない分が、もう溜まっている。
最後の壁坂。
俺は、上げた。
貯めてきた黒字を、全部この坂に投資する。斜度が牙を剥く。腿が燃える。いい。燃やせ。俺のタンクは、まだ半分残っている——五十キロ走って、まだ半分だ。我ながら、ふざけた燃費だと思う。
頂上の三十メートル手前。午前中、澪が仕掛けたのと同じ場所で、背後の音が——途切れた。
「…………っは」
御影の、息だけの笑い声が、風の中に散った。
「化け物だわ、お前のそれ」
残り一周は、一人だった。
誰の背中もなく、誰の車輪の音もなく、五キロの起伏を、俺と風だけで回る。苦しい。苦しいのに、ペダルが軽い。ああ、そうか、と走りながら気づいた。
値札のない競技は、こんなに軽いのか。
賞金もない。得点もない。オッズもない。今日の五十キロは、俺の年収に一円も足されない。なのに——楽しい。悔しいくらい、楽しい。入所前の夜、電卓だけで競技を選んだ俺に、教えてやりたい。お前の計算は正しい。正しいが、計算の外にも、ちゃんと世界はあるぞ。
ゴールラインを、一人で割った。
二着の御影まで、一分十秒。三着の真壁まで、二分半。計時席で戸倉教官がストップウォッチを二度見していた。教官、二度見、今期二回目です。ごちそうさまです。
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ゴール後の芝は、野戦病院だった。
完走者が次々と倒れ込む中、俺は普通に立って、普通に水を飲んでいた。五分後には呼吸が戻り、十分後には空腹になった。周囲の視線が「こいつ、なんで立ってるんだ」と語っていた。回復A85。俺の数字は、レースが終わってからが本番なんだ。
「優勝者同士、対等ね」
振り向くと、澪が立っていた。首から、女子優勝の完走メダルを下げて。
「特等席から見てたけど——最後の坂、私の真似したでしょ」
「いい仕掛けは、その日のうちに輸入する主義だ」
「関税、取るわよ」
「同盟価格で頼む」
澪は笑って、それから、倒れている男子たちを見渡して、ぽつりと言った。
「ロード、楽しかった?」
「……ああ」俺は正直に答えた。「悔しいくらい、楽しかった」
「でしょうね。顔に書いてある」澪は頷いた。「で、あんたは競輪に帰るのよね」
「帰る」
即答できた。楽しさと、行き先は、別の話だ。この競技をプロとして毎週、二百キロの距離でやっている人たちがいる。今日の五十キロでこれだけ削られて分かった。あっちは、あっちで化け物の世界だ。敬意を持って、扉を閉める。俺の欲しいものは、バンクの上にある。
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表彰のあと、芝の上で大の字になっていた御影が、身体を起こした。
いつもの、面白がる顔じゃなかった。
「片瀬」
「ん」
「俺、自転車で負けたの——生まれて初めてだ」
サーキットの喧騒が、その一角だけ、すっと遠くなった。
綱引きで負けたときは、笑っていた。今日は、笑っていない。天才は、芝の上に座ったまま、まっすぐ俺を見ている。半年間、毎朝、俺に背中を貸してくれた男が、初めて、俺を「前を走る奴」として見ている。
「言っとくけど、今日のはロードだ。距離もコースも、お前の庭だった」
「知ってる」
「来月、トーナメントがある。バンクの、競走だ」御影はゆっくり立ち上がって、にっと笑った。いつもの笑顔に、初めて、刃が混ざっていた。
「次は、バンクでな」
宣戦布告だった。この期の頂点から、正式に。
……ふ。ふふ。おい、聞いたか、五か月前の俺。金カバーの天才が、お前を名指しで獲りに来るってよ。
最高の秋になってきた。




