第21話 打ち込み二十本
第二回記録会、当日の朝。
食堂の空気は、いつもの三倍濃かった。七十一人の候補生全員が、今日の数字で測られる。箸の音まで硬い朝メシの中で、俺はこの空気が、正直、嫌いじゃなかった。全員の本気が煮詰まった朝は、いい匂いがする。
で、注目の熊井の飯だが——
三杯。等速。茶碗、きれいに四等分。
「……仕上がってるな」
「おう。飯で分かるだろ」
「分かる。K指数、文句なしだ」
二週間前、二杯で止まった男が、今朝は自分の胃袋を精密機器みたいに運転している。俺は満足して、自分の白米を四杯積んだ。験担ぎと燃料補給を兼ねている。俺の仕掛けが早くなる? 今日はタイムトライアルだ。読まれる相手はストップウォッチしかいない。
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午前、ダッシュ系二種目。俺の山場だ。
二百メートル、発走位置。俺はハンドルを握って、十七年来の相棒に声をかけた。声には出さない。出したら不審者だ。
——F26。二週間、一緒に仕上げてきたよな。本番の一日だけ、格好つけてくれ。
号砲。
踏んだ。相棒は——仕事をした。
電光掲示のタイム、規定マイナス〇秒三。
薄い。薄いが、貯金は貯金だ! 俺は流し走行でハンドルを二回叩いた。よくやった相棒! 帰ったら画面で労ってやるからな!
四百も、同じ薄さで通った。芝に戻ると、日野が親指を立てていた。あいつのダッシュ系は余裕の通過。垂直跳びの申し子は、短い距離では金カバー級に光る。大峰も瀬川も、順当にクリアの報が届く。
午後の千メートルは、俺の貯金箱だった。規定なんて通過点で、自己ベストを八秒残して更新した。半年前、コーナーのたびに芝へ突っ込んでいた男のタイムじゃない。読み上げを聞いた技能組の何人かが、こっちを見て、もう一度見た。ふふん。見ろ。青カバーの成れの果てだ。
三千メートルの俺は、もっと機嫌が良かった。走りながら、自分の中のタンクの残量が「まだ半分」と表示され続ける感覚。ゴールして、電光を見て、俺は声が出た。第一回記録会の俺の三千から、二十秒以上速い。戸倉教官がストップウォッチを見て、俺を見て、もう一度ストップウォッチを見た。教官、それ、二度見です。
だが、今日の主役は俺じゃない。
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三千メートル、最終走者群。熊井の番が来た。
単独走のタイムトライアル。バンクの上には、熊井一人。俺たち四人は、計測地点の芝に並んだ。
発走位置につく巨体に、俺は両手を口に当てて、一言だけ届けた。
「熊井ーー!! 打ち込み、二十本!!」
熊井は振り返らず、右手だけ上げた。届いた。
号砲。
一周目。速い——いや、速すぎない。ぎりぎりの、正しい速さだ。俺のストップウォッチが三十秒〇を刻む。頭の中で、あいつは今、組んで、崩して、入っている。
二周目、三周目。二十九秒台後半で、ぴたりと揃う。芝の上で日野が「揃ってる、揃ってる!」と拳を握り、大峰が「うす……!」と震え、瀬川が声もなく前のめりになる。
そして、五周目。
いつも熊井が崩壊してきた、魔の五周目。前半の借金の取り立てが来る周回。俺はストップウォッチを睨んだ——
三十秒一。
崩れない。
借金が、ないからだ。前半で突っ込まなかった男に、取り立て屋は来ない。御影の背中で覚えた景色の速さと、柔道十年の拍子が、あの巨体の中で、今、完璧に噛み合って回っている。
ラスト一周。熊井が——上げた。
残しておいた馬力を、最後の四百メートルで解禁する。イーブンペースの教科書の、最終ページ。百キロの巨体がバンクの傾斜を唸らせて、ゴールラインを割った。
計測員の読み上げが、スピーカーから流れる。
規定タイム——マイナス一秒八。
自己ベスト。模擬計測より、さらに〇秒六速い。本番で最高記録を出しやがった。
「————っしゃあああああああ!!!」
バンクの真ん中で、熊井が吠えた。芝の上で俺たち四人も吠えた。駆け寄ってきた百キロの時計に、四人まとめて抱きつかれて、全員でひっくり返った。重い。最高に重い。
「片瀬ぇ!! 数えた!! 最後まで数えた!! 打ち込み百本!!」
「五周ぶん多いぞそれ!!」
「気持ちが入った!!」
入りすぎだ。でも、その気持ちの入った誤差ごと、規定の内側だった。
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全種目の計測が終わった夕方、戸倉教官が講評で一言だけ言った。
「結果と、次の期の色は、三日後に発表する。……今日、自己ベストを更新した者が、この期は多かった。以上」
教官の「以上」の前の、半秒の間。あれはたぶん、この山で二番目に値段の高い表情の予備動作だった。
解散後、俺は夕焼けのバンクを見下ろす坂の上で、指を折った。
適性組五人、全員、全種目通過見込み。宝輪観音様、経過報告です。祈りの第一項、五分の五で進行中。
残る楽しみは、三日後の色だ。
青の次は、何色かな。何色でも、青よりは上等だろ。楽しみにして待つことにする。俺の頭に載る色の歴史が、また一ページめくれる。




