第20話 柔道語に訳せ
特訓初日、朝五時。俺は御影の新しい才能を発見した。
「御影、今の一周、何秒だったと思う」
「三十」
「二十九秒九。……次」
「三十」
「三十秒一。…………お前、時計いらないな?」
人間メトロノームだった。一周三十秒ちょうどの注文に対して、御影の誤差は毎周コンマ二秒以内。十周続けても、二十周続けても、ブレない。俺は芝の上でストップウォッチを握ったまま、素直に感動していた。すげえ。世の中には、こういう身体があるのか。天才の使い道がまた一個増えた。本人はただ楽しそうに回っている。
で、問題は生徒のほうだった。
「熊井。今の一周、体感で何秒だ」
「……全力の、七割?」
「秒で答えろ」
「七割!」
駄目だ。御影の真後ろにぴったり付けて三日、熊井の返事は一ミリも進化していない。ついていくだけで精一杯で、ペースを「覚える」余白が身体にないらしい。数字で説明しても駄目、景色の流れる速さで説明しても駄目。俺の翻訳が、届かない。
届かないなら、辞書が違うんだ。
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ヒントは、夕食のテーブルに転がっていた。
熊井の飯の食い方を、俺はプロジェクト開始以来、観察している。結論——こいつは飯まで前半突っ込み型だった。一杯目を全力で搔き込み、二杯目の中盤で急減速し、三杯目は惰性。三千メートルの走り方と、完全に同じ波形だ。
「熊井。今日から飯もイーブンペースで食え。茶碗を四等分して、等間隔で食う」
「飯まで特訓なのかよ!?」
「日常のすべてが練習台だ。安心しろ、量は減らさない」
「なら、やる」
等速飯は、意外にも瀬川が一番うまかった。競泳のインターバルで身体が等分割を覚えているらしい。日野は三口で四等分が崩壊した。人間の個性は飯に出る。観察ノートが今夜も潤う。いいノートだ。
そして四日目の朝、突破口は熊井の独り言から降ってきた。
「はー……走るペースって難しいなあ。柔道の打ち込みなら、何百本でも同じリズムでできるんだけどな」
俺は、ストップウォッチを取り落としかけた。
「熊井。今の、もう一回言え」
「え? 打ち込み? 投げの反復練習だよ。組んで、崩して、入る。それを延々——」
「やってみせろ。今すぐ。エア相手でいい」
熊井は怪訝な顔で、芝の上で打ち込みを始めた。組む、崩す、入る。組む、崩す、入る。百キロの巨体が、驚くほど正確なリズムで同じ動作を刻む。俺は計った。一本、一・五秒。ブレ、ほぼゼロ。
あった。メトロノームは、最初からこいつの中にあった。
柔道十年が、この男の身体に刻んだ拍子。秒という外国語に訳そうとするから届かなかったんだ。母語で言えばいい。
「熊井。一周三十秒は——打ち込み二十本ぶんだ」
熊井の目が、みるみる見開かれた。
「————それなら、分かる!!!」
分かった瞬間から、世界が変わった。
御影の背中の後ろで、熊井は頭の中で打ち込みを数え始めた。二十本で一周。ラップが、揃い始める。三十秒一。二十九秒八。三十秒ちょうど。五日目には、御影なしの単独走で、誤差一秒以内に収まった。
「片瀬ぇ!! 俺、時計になった!! 時計になったぞ!!」
「なったな!! 柔道十年、無駄がなかったな!!」
芝の上で、百キロの時計とハイタッチをした。手が痛い。最高だ。
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特訓には、便乗者も現れた。三千が際どい日野が「俺も混ぜろ!」と参加し、瀬川と大峰も「うす」と朝の芝に加わって、朝五時のバンクは適性組五人と天才一人の定例会になった。
ある朝、御影がぽつりと言った。
「なあ片瀬。特訓ってさ、いいな」
「ん?」
「俺、練習はずっと一人だったから。誰かと『一緒に強くなる』の、初めてやった。……青春っぽくて、いい」
天才は照れもせずに言い切って、また霧の中へ漕ぎ出していった。中学から一人で全国を獲ってきた男の「初めて」を、俺たちの考査対策がもらってしまった。悪い気は、まったくしなかった。
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特訓最終日。模擬計測。
熊井の三千——規定タイム、マイナス一秒二。
読み上げた瞬間、芝の上で五人が雄叫びを上げた。二秒四の借金が、二週間で一秒二の貯金に化けた。プロジェクト・クマイ、理論値達成。
ついでに俺自身の仕上げも報告しておく。ダッシュ練の成果——
瞬発 F 26 ↑0.3
二週間でプラス一。世間的には誤差でも、俺の瞬発にとっては大躍進だ。よくやった相棒。本番も、この調子で頼む。
前夜、消灯前の部屋で、熊井が布団の中から言った。
「なあ片瀬。明日さ……いや、なんでもねえ。寝る」
「熊井」
「ん」
「打ち込み二十本。それだけ数えてれば、お前は受かる。数字は保証済みだ」
「……おう!」
丸太が、いつもより早く安らかな音で倒れた。
よし。明日、全員で通るぞ。




