第19話 プロジェクト・クマイ
実施要項が貼り出された翌日、俺は適性組の四人を招集した。
「自主計測会をやる。全種目、今の自分のタイムを測って、規定と突き合わせる」
「うわ、現実と向き合うやつだ」日野が顔をしかめた。
「現実と向き合わずに考査を受ける方が怖いだろ。敵の位置が分からない戦いはするな。ストップウォッチは俺が持つ」
午後の自由練習の時間、バンクの隅で計測会を開いた。二百、四百、千、三千。一人ずつ走って、俺が測って、規定タイムとの差分をノートに並べていく。
結果発表。
瀬川——全種目、安全圏。特に三千は規定を余裕で切った。元競泳の心肺は伊達じゃない。
大峰——全種目クリア。パワーで押し切る型だが、押し切れるだけの馬力がある。「うす」。合格の返事も、うす。
日野——ダッシュ系は余裕、三千がやや際どい。ただし数字上は圏内。
俺——全種目クリア。ただしダッシュ系二種目は、余裕と呼べる余裕がない。規定は「落第させるための最低線」だから俺の瞬発でも届くが、貯金は当日の体調ひとつで吹き飛ぶ厚さしかない。
……おっと。冷静に計算すると、俺も他人の心配だけしている場合じゃないな。
まあ、いい。二週間ある。それに俺の瞬発は、俺が世界で一番よく知っている仲だ。F25。十七年ずっと一緒にやってきたんだ、本番の一日くらい、格好つけてくれるだろ。頼んだぞ、相棒。
そして。
「……熊井。三千、規定まで、あと二秒四」
バンクの隅の空気が、固まった。
熊井の三千メートルは、規定タイムを二・四秒、超過していた。
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その夜の食堂で、異常事態が観測された。
熊井の白米が、二杯で止まった。
三杯目に行かない熊井を、俺は入所以来初めて見た。K指数を本人に逆適用するなら、「飯が減っている=重症」。ムードメーカーの巨体が、味噌汁を眺めたまま、ぽつりと言った。
「……俺さ、柔道、やめてきたんだよな」
箸が止まったのは、こっちだった。
「中学からずっとやってて、それなりに強くて。でも柔道じゃ食えないって分かってて。競輪なら、体格が武器になるって聞いて、道場の先生に頭下げて、来た。……なのに三千メートルの、たった二秒半で終わったら、俺、なんて説明すりゃいいんだろな。先生に」
湿った空気が、テーブルに降りた。
俺は慰めの言葉を探して——やめた。要らないからだ。だって俺は、こいつが落ちない未来のほうを、数字で知っている。
「熊井。顔を上げろ。いいこと教えてやる」
「……お?」
「お前の三千のラップ、俺、今日全部取った」
「一周目から四周目まで、お前は組で二番目に速い。問題は五周目以降だ。前半で突っ込みすぎて、後半で崩壊してる。お前の三千は、実質、千五百を二回走って二回目に死んでるだけだ」
「……つまり?」
「配分の問題だ。エンジンは足りてる。イーブンペース——最初から最後まで同じ速度で回れば、お前の脚なら、計算上、規定を一秒六残して切れる」
熊井の顔が、ゆっくり上がった。
「け、計算上って、お前の計算だろ? 当たるのか」
「俺の計算は俺の身体で十七年検証済みだ。他人で外したのは……まだサンプルが少ない」
「不安になること言うなよ!?」
でも、熊井の白米は三杯目に伸びた。K指数、回復傾向。
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問題は、翌日の練習で判明した。
熊井には、体内時計がない。
「今の一周、何秒で回った?」
「……全力?」
「感覚でいい。何秒だと思う」
「全力!」
駄目だ。この男の出力は、全力と休みの二段階しかない。イーブンペースという概念が、身体のどこにも実装されていない。柔道は時間を測る競技じゃない。組んで、投げて、終わりだ。十年間、この男の身体はストップウォッチと無縁に生きてきた。
俺は自分のペース感覚を言葉で渡そうとして、失敗した。「一周三十秒の身体の感じ」は、俺の中にはあるが、言語にすると溶ける。
……この失敗、覚えがあるな。
教える側に回って初めて分かった。あの食堂の御影だ。「ぐっ、と来たら、バーン」。あのとき俺は、天才の頭の中には言葉がないと呆れた。違った。身体の知識は、誰の頭の中でも、言葉になっていない。俺のも、だ。
なら、やることは一つだ。
翌朝五時、俺は霧のバンクで、諸悪の根源にして最高の教材に頭を下げた。
「御影。頼みがある。一周三十秒ちょうどのペースで、延々と回ってくれ」
「なにそれ」
「熊井の身体に、メトロノームを入れる。お前のペース感覚は正確だ。熊井をお前の真後ろに付けて、三十秒の身体の感じを、直接コピーさせる。俺は横で全周ラップを読み上げて、感覚に数字のラベルを貼る」
御影は数秒考えて、にっと笑った。
「つまり、俺が教科書で、お前が翻訳で、熊井が生徒?」
「そうだ」
「面白いじゃん。乗った」
よし。心の中で拳を握った。感覚の天才の生きたペース感覚を、数字に割って、他人の身体に移植する——こんな実験、スポーツ科学の教科書でも見たことがない。人類初かもしれない。人類初、二回目だ。わくわくしてきた。
プロジェクト・クマイ、発足。
感覚の天才から感覚を借りて、数字の男が数字に割って、根性の男の身体に入れる。三人がかりの、体内時計の移植手術だ。期限は、記録会まで二週間。
夜、俺は観察ノートの熊井のページを開いて、書き込みの向きが変わっていることに気づいた。
今までこのノートは、他人を攻略するために書いてきた。仕掛けの癖、垂れる距離、弱点。全部、勝つための弾だった。
今夜書いているのは、熊井のラップ表と、改善曲線の予測だ。同じ観察、同じ数字。向きだけが、百八十度違う。
俺のノートが味方のために開かれたのは、これが初めてだった。
開いてみたら、これが、想像よりずっと良かった。友達が受かるのは普通に嬉しい。ついでに言えば、熊井が卒業すれば、俺は将来、接触Bの番手と組めるかもしれない。嬉しさと利益が、同じ方向を向いている。世の中にこんなうまい話があるのか。一石二鳥は、実在した。
プロジェクト・クマイ。目標、規定マイナス一秒六。期限、二週間。
成功報酬——あいつの白米、生涯三杯。




