第18話 おかえり、取引先
帰省最終日は、挨拶回りで終わった。
コンビニのおっちゃんは、レジ越しに拳を突き出してきた。
「九月、考査なんやろ。落ちたら承知せんぞ。ワシはもう、兄ちゃんのデビュー戦の車券を買う予定で人生を組んどるんや」
「気が早いですよ」
「早ない。夢は前倒しで買うもんや」
名言なのか浪費家の理屈なのか、判定に困る餞別だった。
母は玄関で、「業務用炊飯器、五・五升炊きってのがあるらしいわよ」と調査結果を伝えてきた。もう機種選定に入っている。気が早いのはこの町の風土病らしい。
ママチャリは、物置に戻した。ペダルの異音は最後まで直らなかった。三年間の通学と、この夏の江戸川。俺の持久の育ての親に、俺は「世話になった」と声をかけて、戸を閉めた。乗り物に挨拶する男になっていた。山の生活は人を変える。
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伊豆の山は、二週間ぶりでも同じ匂いがした。
寮の部屋では、土産話の交換会が始まっていた。日野が地元の祭りの話を機関銃みたいに喋り、大峰が「うす」で全部に相槌を打ち、瀬川が静かに頷き、熊井が実家の飯の写真を巡回上映していた。
「見ろ片瀬、これがうちの母ちゃんのチャーシュー」
「でかいな。お前の家、飯のスケールがお前と同じだ」
翌朝、四時五十分に目が覚めた。身体は山の時間を忘れていなかった。バンクへの坂を下りると、霧の中に、当然のようにタイヤの音があった。
「おせーよ。三日待った」
御影だった。おかえりも言わない。聞けば、帰省を四日で切り上げて戻ってきたらしい。
「実家、バンクねえんだもん」
帰る理由より帰らない理由のほうが強い男だった。俺は呆れて、それから、普通に嬉しくなって、毎朝なぞり続けた背中の後ろに、久しぶりに付いた。やっぱりこの位置は、世界一の特等席だ。
二週間ぶりのバンク。壁みたいな傾斜に身体を預けた瞬間、脚の裏から頭のてっぺんまで、「これだ」という信号が走った。
その夜の画面で、技術の行が二週間ぶりに動いた。↑0.8。ただいま、傾斜。
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土曜。英会話。
教室に入ると、通路の向こうの定位置に、定規みたいな背筋があった。
「……Long time no see」
「ユー・トゥー」
ペアワークが始まるなり、俺たちは夏の観測報告会を開いた。
俺の報告——松戸競輪場。プロの風は音がすること。オッズは強さじゃなく人気の表だと教わったこと。二十年他人を勝たせて「残る」男と、その男で二十年食っている予想屋がいたこと。
風見は頬杖で聞いて、「いい夏じゃない」と言った。
「そっちは」
「私も、観に行った」風見は少し間を置いた。「ガールズ。地元の場の開催」
「どうだった」
「————客席、がらがらだった」
彼女は、通路の窓の外を見た。
「平日昼間ってのもあるけどさ。男子の記念とは、入りが違う。売上も、賞金も、全部違う。……リーグの平均が、男子の一番下と同じになる理由が、数字で並んでた」
俺は黙って聞いた。慰めの言葉は、この相手には失礼だ。
「でもね、片瀬」風見の目が、こっちに戻ってきた。教室で初めて見る温度の目だった。「速かったのよ、みんな。がらがらの客席の前で、誰も手を抜いてなかった。……あれ見て、決めた。私が客席を埋める側の一人目になる。相場ごと、変える」
「一人目がいなきゃ、二人目は出ないからな」
「——そう。それ」
風見は虚を突かれた顔をして、それから、笑った。俺はただ、こいつが前に言った理屈を返しただけだ。いい理屈は、二回使える。
「ところで風見。事務連絡だ。帰省中、観測データの共有ができなかった。連絡先の交換を提案する」
「無駄よ」即答だった。「寮の電話、奇数日が男子、偶数日が女子。娑婆の番号を知ってても、この山からじゃ、永遠に同じ日に繋がらない」
「……設計した奴、やっぱり悪魔だな」
「でしょ」風見は肩をすくめて、それから、事務連絡の顔のまま、事務連絡じゃないことを言った。「卒業したらね。真っ先に交換してあげる」
チャイムが鳴った。
卒業したら、真っ先に。
……いい響きだな、それ。土曜以外にも話せる日が、いつか来るわけだ。楽しみが一個増えた。楽しみは、多ければ多いほどいい。
そのためにはまず、二人とも卒業しないとな。よし、俺の宿題は決まりだ。
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教室からの帰り、渡り廊下の掲示板の前に、人だかりができていた。
「第2回記録会 実施要項」。
日程、九月第二週。種目、二百、四百、千、三千。そして、種目ごとの——規定タイム。
第一回と決定的に違う一行が、要項の最後にあった。
本記録会より、適性試験合格者も卒業認定考査の対象とする。
隣で日野が、乾いた声で読み上げた。
「……規定を割ったら、退所、と」
誰も茶化さなかった。観音様の前で五人が祈った九月が、掲示板の上で、日付になっていた。
正直に言うと、俺は掲示を読みながら、少し安心していた。
日付と、種目と、数字。敵の正体が、全部貼り出されている。得体の知れない「考査」という化け物が、ただの「数字との勝負」になった。数字との勝負なら、俺たちの毎日と同じだ。
「よし。明日、計測会をやるぞ。全種目、全員だ」
「……この空気で!? お前、切り替えっていうか、最初から凹んでないだろ!?」
「凹む要素あったか? 目標の数字を、タダで公開してもらえたんだぞ。ありがたいだろ」
日野が、変な生き物を見る目で俺を見た。失礼な。俺はいたって合理的に前向きなだけだ。
五人で受かって、五人でプロになる。想像したら、普通に楽しみになってきた。ついでに五人ぶんの初年度年収を足し算したら、概算四千万だった。楽しみが、金額でも確認できた。
夏は終わった。なら、収穫の秋にするだけだ。




