第17話 帰省中も伸びる男
松戸競輪場の翌朝から、俺の朝トレは変質した。
プロの風の音を聞いてしまった身体は、ママチャリ二十一分では満足しなくなった。俺は物置の相棒にまたがって、江戸川の土手に出た。川沿いに、地平線まで続くサイクリングロード。信号なし、遮るものなし、風は川から吹き放題。
走った。北へ一時間、折り返して一時間。
向かい風の区間で、にやけた。追い風の区間で、物足りなくなった。重症だ。風を浴びないと調子が出ない身体になっている。五か月前、風なんて天気予報の項目でしかなかった男が。
ママチャリは三日目に、ペダルから異音を出し始めた。相棒よ、すまん。お前の設計思想に、時速三十五キロは入っていなかったよな。
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昼、大和と駅前のゲーセンで落ち合った。
「うおっ、マジででかくなってる。合成?」
「生身だ」
大和は五か月ぶりに見ると、逆に細くなっていた。夏休みの全部を練習に注いでいるらしい。格闘ゲームの全国大会、オンライン予選を勝ち上がったのだと、筐体を叩きながら早口で語った。
「本戦、出られたら賞金圏あるんだよ」
「いくらだ」
「優勝十万」
「…………」
「今、市場規模を計算した顔しただろ! すんな! ここからなんだよ、この界隈は!」
した。悪かった。でも大和は笑っていた。
「親はまだ許してねえけどさ。俺、決めたんだ。数字出すしかねえって。……お前の受け売りだけど」
「俺の?」
「四月にお前が言ったろ。『説得より先に、数字を作りに行く』って。あれ、ずっと残ってて」
言った覚えは、ある。正確には、俺は自分に言い聞かせていた。それが誰かの燃料になっていたとは。
「片瀬もさ」大和はレバーを握ったまま、画面を見たまま言った。「変わったよな。前のお前、もっとこう……閉店後の店みたいだったのに、今、営業中って感じする」
「なんだその比喩」
「褒めてんの」
閉店後の店。言い得て妙で、腹が立った。確かに高三の俺は、開く前に閉じていた。
対戦は十連敗した。俺の瞬発Fは、ゲームでも正直だった。
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夜、母と晩飯を食いながら、俺は宣言した。
「デビューして、最初の賞金が入ったら、炊飯器を買う。業務用の」
母は味噌汁を吹きかけた。
「親孝行の第一弾がそれ?」
「実用性で選んだ」
「……あんたらしいわ」母は笑って、それから、少しだけ声の温度を変えた。「お母さんはね、炊飯器より、あんたが日曜に競輪場から帰ってきたときの顔が見られただけで、もう元は取れてるの」
「元も何も、まだ一円も稼いでない」
「稼いでるのよ、そういうのは。……ま、業務用炊飯器も、もらうけど」
もらうのかよ。台所で二台目の炊飯器が湯気を上げていた。帰省中、我が家の米の消費量は三倍になっている。俺の身体は、実家の家計に対しても風の請求書だった。
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帰省も残り三日になった夜、ベッドで画面を開いた。
【片瀬 湊 17歳】
スピード F 35 ↑0.1
瞬発 F 25 ↑0.1
パワー D 59 ↑0.2
持久 B 78 ↑0.6
回復 A 84 ↑0.4
技術 F 33 ↑0.0
持久と回復は、江戸川で今日も伸びた。休暇中でも伸びる。むしろ山より風が自由なぶん、気持ちよく伸びている。帰省中も伸びる男、ここにあり。
問題は、一番下の行だ。
技術、↑0.0。
三日連続の、ゼロ。
当たり前だった。技術はバンクの走行技術だ。傾斜のない江戸川の土手を何百キロ走っても、コーナーワークは一ミクロンも上達しない。ママチャリに三十三度の傾斜は登れない。
俺は天井を見上げて、自分の感情を観測した。
……バンクが、恋しい。
あの壁みたいな傾斜と、朝五時の霧と、定規で引いたみたいなラインの男が、恋しい。娑婆に出て二週間弱で、山をホームと呼び始めている。重症だ。診断名、競輪。
ついでに言うと、もう一件、娑婆で気づいたことがある。
俺は、風見の連絡先を知らない。
スマホが手元に戻って、指が勝手に「同盟相手に観測データを共有しよう」と動いて、そこで固まった。連絡手段が、ない。取引先と連絡手段のない商売が、この世にあるか。土曜の教室、週一時間。それが契約上の全チャネルだ。
……まあ、いい。帰れば、土曜が来る。
帰れば会えるから、いいのか? と、自分の思考の言い回しに引っかかったが、深追いはしないことにした。俺の画面に、感情の項目はない。観測できない数値の解析は、俺の管轄外だ。
残り三日。江戸川を、あと二往復。
九月の考査が、山の上で待っている。




