第16話 プロの風と、百円の見立て
日曜、朝十時。松戸競輪場、正門前。
おっちゃんは約束の五分前に現れた。コンビニで見る姿より、明らかに姿勢がいい。戦場に向かう男の背中だった。
「よっしゃ、行くで。入場料、百円な」
百円。映画の二十分の一で、生身のプロが見られる計算になる。安すぎないか、この競技。
「あと、兄ちゃん。ひとつだけな」ゲートの手前で、おっちゃんが急に真顔になった。「あんた、もうそっち側やろ。売り場には近づいたらあかん。ワシが買うとこ、ついてこんとってくれ」
言われて、初めて気づいた。俺は今日、客として来たつもりでいた。違う。制度の上では、俺はもう賭けられる側の人間だ。買う側の窓口には、一生立てない。
「……はい。バンクだけ見てます」
「それでええ。ワシの車券は、ワシの自己責任や」
ゲートをくぐると、昭和の匂いがした。
日に焼けたおじさんたちの群れ。手すりに並んだ缶コーヒー。頭上のモニターには数字の羅列。そしてスタンドの向こうに——バンクが、あった。
三百三十三メートル。
俺は足を止めた。養成所のバンクは四百だ。目の前の走路は、ひと回り小さくて、そのぶんコーナーの傾斜が壁みたいに立っている。同じ「バンク」という名前の、別の生き物だった。
「どや、ええやろ」
「小さい……いや、急だ。この傾斜、四百と別物ですよ」
「兄ちゃん、初見でそこ見るか」おっちゃんは嬉しそうに笑って、俺の背中を押した。「ほな、まずは須田さんとこや」
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スタンド下の通路の、売り場とは反対の端に、その台はあった。
小さな踏み台の上に、小さな黒板。手書きの数字。その横に、しわがれた声の主が立っていた。
「はい、次、七レース! 見立て、一枚百円!」
須田さん、とおっちゃんが呼んだその人は、七十近い痩せた男だった。鉛筆を耳に挟み、使い込まれた手帳を片手に、客と早口でやり合っている。
「須田さん、今日の狙いは」
「三番の頭は堅い。相手が問題や」
おっちゃんは百円玉を渡して、小さな紙切れを受け取った。数字が三つ書いてある。それだけだ。
「……予想屋、ですか」
「おう。競輪場の名物や。昔はどこの場にも何軒も並んどった。今は……まあ、絶滅危惧種やな」
予想を、百円で売る商売。俺は台の上の老人を見上げた。データを売って飯を食う人間を、俺は生まれて初めて見た。
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七レース、発走。
打鐘が鳴った瞬間、俺は手すりを握りしめた。
速い。
画面越しに何百回も見た速度のはずだった。養成所で毎日、自分でも出しているはずの速度だった。違う。生のプロの速度は、音がする。七つの車輪がバンクの縁を通過するたび、空気が裂ける音が、腹に響く。最終周、先頭の選手が壁みたいな傾斜を斜めに駆け下りてくる——あの男が今、正面から受けている風の質量を、俺は知っている。知っているつもりだった。
これが、プロの風。
「……なあ、兄ちゃん」隣でおっちゃんが、にやにやしながら言った。「ええ顔しとるで」
自覚はあった。たぶん俺は今、鐘の前の顔をしている。
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八レースから、俺は職業病を発症した。
出走表とオッズボードを交互に見て、頭の中で展開を組む。脚質、決まり手の記録、並び。観察ノートの技術は、初見の選手が相手でも、紙の上のデータだけでかなり動く。
「八レース、五番の先行は最後まで保たない。三日前に落車帰りです、ここ」出走表の隅の記号を指す。「番手の二番が差して、外から七番」
独り言のつもりだった。隣の男の耳が、良すぎただけだ。
「ほーん?」おっちゃんは俺の出走表を三秒だけ覗いて、にやりと笑った。「……ワシ、ちょい行ってくるわ。兄ちゃんはここで待っとき」
言われたとおり、俺はスタンドに残った。売り場のほうは、見もしなかった。戻ってきたおっちゃんの手には、紙が数枚。何をどう買ったのかは、聞かなかったし、向こうも言わなかった。
二−七。千二百円。おっちゃんが吠えた。
九レースも、骨子は当てた。十レースは外した——展開は読めたが、最終直線の接触までは紙から読めない。三勝一敗、といったところだ。
で、気づいたら、台の上から視線が降っていた。
須田さんが、鉛筆を耳に挟んだまま、じっと俺を見ていた。
「……兄ちゃん。さっきから、当てとるな」
「彼、養成所の候補生やねん」おっちゃんが、なぜか自分の手柄みたいに胸を張った。「うちの常連や。適性で受かりよってん」
須田さんの目の色が、変わった。台から降りてきて、俺の顔を、それから手元の出走表を見た。俺が書き込んだ矢印と数字だらけの出走表を。
「……あんた、選手を数字で見る目ぇしとるな。ワシらと同じ目や」老人は、ふ、と笑った。「せやけど、あんたのは売るための目やない。勝つための目や。そら当たるわ。当てる理由がちゃう」
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十一レース。須田さんは俺の隣に立って、黒板を放置したまま、講義を始めた。
「ええか、兄ちゃん。オッズボード、見てみ。あれはな、強さの表とちゃう。人気の表や」
「人気」
「客がどこに金を積んだか、それだけの数字や。強さと人気は、だいたい重なる。……だいたい、や。ズレる日がある。ズレたとこに、ワシらの商売がある」
強さと、人気のズレ。
俺は電光の数字を見上げた。あの数字は、世間が選手をどう観測したかの集計だ。つまり選手は全員、走る前から、あの板の上で毎日測られている。
俺もいずれ、あそこに並ぶ。俺の強さを、世間がいくらと見積もるのか——正直、ちょっと楽しみになってきた。
「ほれ、次、よう見とき」須田さんが出走表を叩いた。「六番。蓑輪。四十過ぎのベテランや」
「……買うんですか」
「頭は買わん」老人は即答した。「あの男の頭は、もう何年も買うてへん。買うのは六番の後ろや。あの男が引いたラインは、番手が来る。……二十年、他人を勝たせとる男や。ワシは二十年、それで食うとる」
二十年、他人を勝たせている男。
レースが始まった。六番・蓑輪は、鐘の前から先頭に立ち、風の壁を一身に受けて、ラインを引いた。俺の目には分かる。あの速度、あの持続、あの——削られ方。最終直線、番手の若い選手が蓑輪の横をすり抜けて一着。蓑輪は粘って、三着に食い込んだ。
「よっしゃ! ……ん、六番もよう残ったな」
残った。
その言い方に、俺は引っかかった。勝ったんじゃない。負けたんでもない。「残った」。風を全部払った男の三着を表す、専用の動詞があるらしい。
二十年、風の請求書を払い続けて、他人を勝たせて、自分は「残る」男。
——俺が入所前の夜に「却下」と切り捨てた生き方が、目の前のバンクで、飯を食っていた。しかも、予想屋一人を二十年食わせるほど、確かな形で。
胸の中で、何かが咀嚼しきれずに残った。今日のところは、ノートの隅に書いておくだけにする。
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最終レースが終わると、スタンドの床は外れ車券の紙吹雪だった。おっちゃんの足元にも、数枚散った。トータルは「聞くな」だそうだ。
帰り際、須田さんが台の上から声をかけてきた。
「兄ちゃん。名前は」
「片瀬。片瀬湊です」
「片瀬な」老人は手帳を開いて、鉛筆を舐めて、何かを書きつけた。「デビューしたら、教えぇ。ワシの手帳に、ちゃんと書いたる」
「——書かせます」俺は言った。「頭で」
須田さんは一瞬きょとんとして、それから、今日一番の声で笑った。
「っはっは! ええこと言うわ! おい、あんたの常連、ええ子や!」
「やろ!?」
おっちゃんが、また自分の手柄みたいに胸を張った。
夕方の松戸の空の下、俺は今日見たものを頭の中で並べた。プロの風の音。人気の表。残った、という動詞。そして、手帳に俺の名前を書いた予想屋。
娑婆にも、観測者はいた。それも、とびきり年季の入ったやつが。




