第十話「認められた自力救済」 ――ドイツ民法第二二九条・限定的な自力の容認――
これまで「自力救済=禁止すべき悪」として追ってきた律たちですが、跳躍先は現代のドイツ!なんとドイツ民法第229条には、「公的助力をすぐに得られない緊急時には、私人が実力で権利を確保する自力救済は違法ではない」という規定が存在していて……!?
法治国家ドイツが認める「正当な自力救済」とは何か?律たちの調査旅の締めくくりをご覧ください!
「Unit-LEX、今回は海外ですか」
律が少し身を乗り出した。
〔Unit-LEX〕「対象法令:ドイツ民法(BGB)第二二九条。自力救済(Selbsthilfe)に関する規定です」
「自力救済……? これまでずっと、禁止する側の法律を見てきましたが」
〔Unit-LEX〕「対象条文を表示します」
律の網膜に、ドイツ語の条文とその翻訳が並んで浮かび上がった。
「官憲の援助を適時に得ることができず、即時に行動しなければ請求権の実現が不可能または著しく困難となる場合、自力救済のためにする行為は違法ではない」
律は目を見開いた。
「……違法では、ない……? 自力救済を、認めている……?」
陣内が驚いたように身を乗り出した。
「おいおい、今までさんざん『自力救済は悪』って前提で調べてきたのに、いきなり真逆の法律かよ」
〔Unit-LEX〕「跳躍先を設定します。現代、ドイツ某地方都市」
床が発光し、空間が歪んだ。
石畳の道と、整然と並ぶ煉瓦造りの建物。
律たちが降り立ったのは、現代のドイツの住宅街だった。一軒の家の前で、初老の男性が、庭から逃げ出そうとする犬を追いかけていた。
「待て、この犬! お前が、うちの庭を荒らしたんだろう!」
男性は犬を捕まえると、その首輪に自分の連絡先を書いた紙を括り付け、近所の獣医のもとへ連れて行こうとしていた。
律は困惑した様子で尋ねた。
「……これは、何をしているのですか」
〔Unit-LEX〕「説明します。ドイツ民法第二二九条およびその関連規定は、一定の要件下で、私人が自ら実力を行使して権利を実現することを認めています。この場面は、飼い主が判明しない犬による器物損壊に対し、当該男性が犬を一時的に捕獲し、後の損害賠償請求のための証拠として自ら確保している状況と推定されます」
「……警察を呼ばずに、自分で……?」
律の声には、これまでとは違う種類の戸惑いがあった。
「Aber Moment mal——」
男性は、駆けつけた近隣住民に、ドイツ語で説明していた。Unit-LEXが同時通訳する。
〔Unit-LEX〕「翻訳します。『すぐに警察を呼んでも、犬はどこかへ行ってしまう。今、捕まえておかなければ、後で証拠がなくなる。だから、これは合法な自力救済だ』」
律は呆然と、その光景を見つめた。
「……日本であれば、まず『器物損壊の被害を、個人が実力で取り押さえて良いのか』という点自体が、大問題になるはずです。でも、ここでは、当然の権利として……」
陣内が顎に手を当てた。
「これまでの調査だと、自力救済ってのは、農民の殴り合いだったり、抜け道の悪用だったり、基本的に『まずいもの』として扱われてたよな。でも今回は、条件付きで『正しいもの』として認められてる」
〔Unit-LEX〕「補足します。ドイツ法における自力救済の容認は、無制限のものではありません。要件は厳格に限定されています。第一に、公的機関の助力を適時に得られないこと。第二に、直ちに行動しなければ権利の実現が不可能または著しく困難になること。第三に、必要な限度を超えないこと。これらの要件を欠く実力行使は、通常通り違法とされます」
律は考え込みながら呟いた。
「……つまり、『自力救済禁止』という大原則を維持しながら、ごく限定的な『例外』として、緊急時の実力行使を認めている……」
「今までの調査だと、こういう『例外』の話、あったか?」
陣内が尋ねた。
律はしばらく記憶をたどった。
「……現行刑法の正当防衛と、少し似ているかもしれません。あれも『原則禁止、例外的に容認』という構造でした。でも、正当防衛は『身を守るための反撃』です。これは、『権利を実現するための、積極的な実力行使』……防御ではなく、行使そのものが認められている点で、また違う種類の例外です」
〔Unit-LEX〕「指摘の通りです。正当防衛が防御的権利であるのに対し、ドイツ法における自力救済は、より能動的な権利実現の手段として位置づけられています」
律は、犬を連れて歩いていく男性の後ろ姿を見つめた。
「……これまで、自力救済という言葉には、どこか『野蛮さ』のようなイメージがつきまとっていました。今川の農村での殴り合い、鎌倉の水掛け論。でも、ここでは、自力救済は、条件を満たせば、むしろ合理的で、正当な手段として扱われている」
「法治国家として名高いドイツが、真正面から自力救済を認めてる、ってのが面白いところだな」
陣内が言った。
「『自力救済禁止』が絶対的な理念なわけじゃなく、あくまで『原則』であって、状況次第では、むしろ実力行使が合理的な解決策になり得る、ってことを、この国は正面から認めてるってわけだ」
律は静かに頷いた。
「……次に日本の民法を見た時、この視点を持って見てみたいです。日本にも、こうした『例外』は、存在するのでしょうか」
律たちが円卓に戻ると、律はいつもより慎重な手つきで、報告書の作成に取りかかった。
〔Unit-LEX〕「関連法体系との対比を提示します」
〔Unit-LEX〕「フランス民法、スイス民法など、大陸法系の複数の法域において、限定的な自力救済の容認規定が見られます。英米法においても、動産の取戻し(リコンバージョン)に関連して、一定の自力救済的行為が判例上認められる例があります」
律は頷いた。
「大陸法系の国々では、条件付きの自力救済容認が、一つの共通した設計思想として存在しているようですね」
時空法制局・調査報告書
案件番号:TLB-0017
対象法令:ドイツ民法(BGB)第二二九条
調査地:現代・ドイツ某地方都市
【現場の事実】
私人が、緊急性を理由に、器物損壊の加害者(動物)を自ら一時的に捕獲する行為が、合法な自力救済として社会的に受容されている状況を確認した。
【規定の構造】
自力救済は原則として禁止されるが、公的救済を適時に得られない緊急性、権利実現の困難性、必要限度の遵守という三要件を満たす場合に限り、例外的に適法とされる。
【これまでの調査との対比】
これまでの調査対象がいずれも「自力救済の禁止」を扱ってきたのに対し、本条文は「自力救済の限定的容認」を扱う点で、逆方向の視座を提供する。正当防衛(防御的権利)とも異なり、より能動的な権利実現手段としての性質を持つ。
【次回への示唆】
日本の民法において、同様の「例外」がどのように扱われているか、あるいは扱われていないかを検証する必要がある。
書き終えて、律は端末を閉じた。
「……禁止か容認か、という二択ではなく、どちらの国も、緊急性という条件のもとで、慎重にバランスを取ろうとしている。ただ、そのバランスの取り方が、国によって全然違う」
〔Unit-LEX〕「次の跳躍先として、日本民法を提案します」
律は頷いた。
「はい。今度は、私たち自身の国の話です」
お読みいただきありがとうございました。
「自力救済禁止」という大原則と、緊急時の「例外容認」。国や時代によって権利と法秩序のバランスの取
り方が異なり、法の深さが凝縮されたラストとなりました。
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