第十一話「書かれなかった例外」 ――日本民法・自力救済禁止の判例的形成――
日本の民法には、ドイツのように自力救済を認める明確な条文が存在するのでしょうか? 今回は昭和40年の最高裁判決の時代へとタイム跳躍します。成文規定のない日本で、例外としての自力救済が判例の積み重ねによってどのように形成されてきたのか、律たちとともに追っていきましょう。
「Unit-LEX、日本の民法には、ドイツと同じような自力救済の規定があるんですか」
律が身を乗り出して尋ねた。
〔Unit-LEX〕「調査結果を報告します。日本の民法には、ドイツ民法第二二九条に相当する、自力救済を明文で認める条文は存在しません」
「……存在しない?」
律は拍子抜けしたような顔をした。
「では、日本では自力救済は、一切認められていないということですか」
〔Unit-LEX〕「そうとも言い切れません。最高裁判所の判例により、極めて限定的な場合に限り、自力救済が違法性を欠くとされた例があります。ただし、その要件は、明文化された条文ではなく、判例の積み重ねの中に存在します」
陣内が眉を上げた。
「条文がないのに、判例だけで、認められたり認められなかったりするのか。それ、現場は混乱しないのか?」
〔Unit-LEX〕「対象事例を提示します。昭和四十年の最高裁判決。土地の不法占拠者に対し、所有者が実力で物件を撤去した事案について、極めて限られた要件のもとでのみ、自力救済が例外的に許容されるとした判断です」
律は考え込んだ。
「……ドイツは、条文にはっきりと三つの要件が書いてある。でも日本は、条文には何もなく、判例の中に、要件が埋め込まれている……」
〔Unit-LEX〕「跳躍先を設定します。昭和四十年前後、日本のある地方都市」
床が発光し、空間が歪んだ。
木造家屋の並ぶ、埃っぽい路地。
律たちが降り立ったのは、戦後復興期の面影がまだ残る、地方都市の一角だった。空き地に、粗末なバラック小屋が建っている。
「おい、いつまでそこに住み着いてるんだ! ここは俺の土地だぞ!」
土地の所有者と思しき男が、バラック小屋の住人に向かって声を荒げていた。
「そう言われても、他に行く当てがねえんだよ! 何年も放っておいたのは、そっちだろうが!」
律は困惑した表情で、その様子を見守った。
「……不法占拠、ですか」
〔Unit-LEX〕「肯定します。戦後の混乱期には、所有者不明、あるいは所有者が管理を放棄した土地への、こうした不法占拠が各地で発生していました」
所有者の男は、数日後、仲間を連れて戻ってきた。バラック小屋を実力で解体し始めたのだ。
「な、なにをする! 訴えるぞ!」
「うるさい! 俺の土地だ! 何度警告したと思ってるんだ!」
律は思わず声を上げた。
「こ、これは、違法な実力行使になるのでは……! 裁判所を通さずに、勝手に――」
〔Unit-LEX〕「この事案の帰結を追跡します」
しばらくして、この一件は裁判に持ち込まれた。律たちは、法廷の傍聴席に移動していた。
裁判官が、判決文を読み上げる。
「本件においては、被告が既に長期間にわたり不法に占拠を継続しており、原告が法的手続きによる救済を求める時間的余裕がなかったとまでは認められない。したがって、被告による実力行使は、自力救済として許容される限度を超えており、違法である」
律は目を見開いた。
「……違法、と判断された……」
〔Unit-LEX〕「解説します。この判決は、自力救済が例外的に許容されるためには、『法的手続きを待っていては、権利の実現が不可能または著しく困難になる』という、高度な緊急性が必要であることを示しています。本件では、既に長期間の不法占拠が継続していたため、緊急性が否定されました」
律は考え込んだ。
「……つまり、ドイツの犬の事例のように、『今すぐ動かなければ、証拠も権利も失われる』という状況でなければ、自力救済は認められない、ということですか」
〔Unit-LEX〕「肯定します。日本の判例上、自力救済が許容される場面は、ドイツ法よりもさらに限定的であると考えられています。条文がない分、司法判断は、より慎重かつ厳格な姿勢を取る傾向があります」
陣内が腕を組んだ。
「条文がないってのは、つまり、『いつ認められるか』が、はっきり分からないってことだよな。ドイツみたいに、最初から三つの条件が書いてあれば、みんなそれを見て判断できる。でも日本じゃ、実際に裁判をやってみないと分からない」
律は頷いた。
「……これは、これまでの調査で見てきた『理由を問う/問わない』の対立とは、また違う問題かもしれません。日本の場合、理由を問うこと自体は当然の前提としつつ、その基準を、条文ではなく、判例の蓄積という、目に見えにくい場所に委ねている」
〔Unit-LEX〕「補足します。これは、公事方御定書で見られた『判例の蓄積による量刑の精緻化』という日本法の伝統的な特徴と、通底する側面があります」
律ははっとした。
「……江戸時代から続く、判例中心の法文化……。成文法として明確に書き切るのではなく、現場の積み重ねの中に、規範を委ねていくというやり方……」
律はバラック小屋が解体されていく様子を、複雑な表情で見つめた。
「……この所有者の男性は、恐らく『自分の権利を守っただけだ』と思っていたはずです。でも、法は、彼の行為を許しませんでした。緊急性が足りない、という理由で」
「気の毒っちゃ気の毒だな」
陣内が呟いた。
「でも、それを許しちまったら、今川の農民の『拳ならセーフ』と、本質的には同じことになる。『自分が正しいと思えば、実力行使していい』ってなっちまう」
律は静かに頷いた。
「……そうですね。自力救済禁止という大原則を守りながら、本当にやむを得ない例外だけを、慎重に見極める。それが、この国が――条文ではなく、判例という形で――選び取ってきたバランスの取り方なんですね」
律たちが円卓に戻ると、律はしばらく考え込んでから、報告書の作成に取りかかった。
〔Unit-LEX〕「日独対比を提示します」
〔Unit-LEX〕「ドイツ:成文法による明確な要件規定。予測可能性が高い一方、要件に該当するか否かの形式的な当てはめに、判断が偏る可能性がある。日本:判例による事後的な基準形成。個別事案の実質的な衡量が可能である一方、予測可能性に劣り、当事者が自らの行為の適法性を、行為の時点で確信することが困難である」
律は頷いた。
「……どちらが優れている、という話ではないのかもしれません。明確さを取るか、柔軟さを取るか。法文化の根本的な選択の違いですね」
律は報告書を書き始めた。
時空法制局・調査報告書
案件番号:TLB-0018
対象法令:日本民法・自力救済に関する判例法理
調査地:昭和四十年前後・日本のある地方都市
【現場の事実】
不法占拠者に対する土地所有者の実力による排除行為が、緊急性の欠如を理由に、自力救済として許容される限度を超えると判断された事例を確認した。
【ドイツ法との対比】
ドイツ民法第二二九条が明文で三要件を規定するのに対し、日本法には対応する成文規定が存在せず、判例の蓄積によって許容要件が形成されている。日本の判例上の要件は、ドイツ法よりも厳格に運用される傾向がある。
【法文化的背景】
成文法による明確化を志向するドイツ法的伝統と、判例の積み重ねによる規範形成を志向する日本法的伝統――この違いは、公事方御定書以来、日本法に一貫して見られる特徴と連続している。
【自力救済編・総括への接続】
大宝律令、御成敗式目、今川仮名目録、公事方御定書、現行刑法、そして本件に至るまで、日本の自力救済禁止の系譜は、一貫して、成文の理念と現場の判例的調整との、緊張関係の中で形成されてきた。
書き終えて、律は端末を閉じた。
「……これで、海外の一例と、日本の現代法まで、両方を見ることができました」
「お疲れさん、先生」
陣内が伸びをした。
〔Unit-LEX〕「自力救済編に関する全調査データが出揃いました。総括報告書の作成が可能です」
律は、これまでの調査の全てを思い返すように、しばらく目を閉じていた。
「……今川の農村での殴り合いから、ここまで、随分と遠くまで来ましたね」
〔Unit-LEX〕「総括に移行しますか」
律は静かに頷いた。
「はい。この長い旅を、一度、きちんとまとめましょう」
お読みいただきありがとうございました!
ドイツ法のように明確な成文規定を置くスタイルとは異なり、日本法は判例の積み重ねによって慎重に自力救済の許容基準を形成してきました。緊急性が乏しい場合には実力行使を認めない姿勢は、江戸時代の判例中心の法文化とも通じる日本的なバランス感覚の現れと言えます。次回はいよいよ第一章の総括です!




