占い師、来襲其の八
「……行ったか?」
夜、明かりを落として暗くなった部屋に柳鏡の声が低く響いた。
「……うん、もう大丈夫だと思う」
そして、彼の問いに答える景華の声も部屋に一瞬響いて消える。その後、一息ついてから彼らはそっと部屋の戸を開けた。廊下の曲がり角で、見回りの侍女と兵が持っている灯がゆらゆらと揺れ、消えた。この後の見回りが来るのは、明け方。つまり、その間は二人が部屋にいないことを誰かに見とがめられることはないのだ。二人はそこに目をつけた。
「柳鏡、行こう!」
「あ、こら待て!」
そっと部屋を抜け出そうとした景華を、柳鏡が引きとめた。それから、椅子にかけてあった羽織を彼女に向けて差し出す。
「いらない。暑いじゃない」
「馬を走らせて風に当たるうちに寒く感じるようになるから、着た方がいい」
そう言ってもう一度彼女に渡そうと羽織を差し出したが、彼女は頬を膨らませて首を振るばかりで、取り合ってくれない。時間を少しでも無駄にしないようにするため、柳鏡は彼女に羽織を着せることを諦めて問答を打ち切った。
そっと廊下に滑り出て、居室の戸を元通りに閉める。小さな物音でも耳につく。この時ほど緊張する瞬間はないな、などと、景華は呑気なことを考えていた。
「よし、行くぞ」
そう言って景華の手を取ると、柳鏡は静かに、だが風を切るような速さで走った。渡り廊下から中庭を抜けて、反対側にある閣議室などの政治機関が集まっている南棟に辿りつく。ここにはまだ仕事をしてい残っている官僚が何人かいるため、城を抜け出すために乗り越えなければならない最大の難所となっている。見回りと出会わずに城を抜け出すためにはここが最短のルートなのだから、どうしても通らない訳にはいかないのだ。
「それで陛下に……」
二人は廊下の後ろ側から話声がするのに気付いてひどく慌てた。柳鏡が咄嗟に自分の後ろにある戸を開けて、景華を中に押し込める。それから、自分もその部屋に入って戸を静かに閉めた。景華が緊張で表情を硬くしているのが、僅かに差し込む月の青白い光でわかった。その緊張具合があまりにもかわいらしくて、柳鏡は苦笑をもらしてしまった。
「……の案件についてはやはり先に英明様にご報告したほうが……」
「いや、陛下に直接上奏した方がいい。英明様に握りつぶされる可能性が……」
話声は彼らが隠れている部屋の前を素通りしていった。ほう、と安堵の息を漏らしてから、また外の気配を伺う。どうやらもう人はいないようだと判断して、二人は部屋を後にした。
「英明の奴、文官たちからの上奏案件を握りつぶしているだと……?」
「うん、たまに聞いたことのない案件について、何度も上奏してるのにって直訴してくる人がいるの。ただね……」
彼女が困惑したように眉を寄せて黙り込んだので、彼はほんの少し片眉を持ち上げて続きを促した。
「公務を行う順番が悪いとか、祭りは国民に権威を見せつけるべきだからもっと派手にした方がいいとか……」
「あんたに言ってもどうしようもないだろ、それ……」
柳鏡が呆れた顔で溜息とともに吐き出した言葉に、景華も頷いて答えた。
「そうなの。公務の順番については閣議にかけた結果なんだし、祭りについては今は倹約の時期だから、どうしようもないもの。だから、英明が上奏しないようにしているのは、多分そういった案件だと思う」
「なるほどな……」
嫌な奴だが、やはり仕事はできる奴だ。柳鏡はそう英明の評価を改めた。
その後は特に危険な目に遭うこともなく、彼らは無事に厩舎まで辿りついた。柳鏡が外で見張りをしている間に、景華が颯を厩舎から連れ出す。そして、サッと颯の背に二人で乗り、静かに城壁を乗り越えて外へ出る。ここから城の外に出るのは、彼らにとってはもう日常の出来事となってしまっていた。予算がないのを言い訳に、景華はまだ城壁の修理の指示を出していなかった。城壁が修復されてしまえば、もう柳鏡とこうして外に出ることも出来なくなってしまう。お互いの気持ちが通じてから結婚するまでの恋人としての期間があまりにも短かった二人は、その期間の短さを埋めるように、こうして夜になってから城を抜け出し、二人で過ごす時間を重ねているのだ。
やがて本日の目的地に着いたのか、柳鏡が颯の走る速度を緩めた。
「……うわぁ、綺麗!」
景華がそう歓声を上げるのを聞いて、柳鏡はふと笑みを漏らした。それから颯を止め、その背から景華を下ろして手頃な木につないだ。
柳鏡が景華を連れて来たのは、城が見える位置にある小さな丘だった。麓には一面の田が広がっている。
「どうやら、今年は米も豊作みたいだな」
手を翳すようにして麓を見渡している柳鏡に、景華は嬉しそうに頷いた。その頬が喜びでほんのりと上気しているのを見て、柳鏡の口も自然と笑みの形を取っていた。しばらく二人で稲穂が風に揺れる様子を眺めてから、どちらともなくその場に腰を下ろす。ふと、柳鏡がそのまま横になった。
「何してるの? 柳鏡?」
景華が目を丸くして尋ねると、柳鏡は表情を柔らかく崩して応えた。
「まあ、気になるならあんたも横になってみろよ」
そう言われては好奇心旺盛な景華のこと、断われるはずもない。彼を見習って、その隣に自分の両手を頭の下に敷くようにして横になる。
「わ、あ……」
彼女の視線は、空に吸い寄せられてしまった。昔父への献上品にあった、真珠がいっぱいに詰められた宝石箱。あれをひっくり返したら、こんな風になるだろうか。彼女の元にこぼれて来そうな程の、満天の星空。こんなに綺麗な星空を見たのは、彼と見た清龍の里の空以来であろうか。
「す、すごいよ柳鏡! 見て!」
「……あんたより先に見てるって。ほら、ちょうど俺たちの頭から足に向かって白い光の帯みたいになってるだろ? これが天の川だ」
柳鏡はそう言いながら空を指差し、自分たちの頭の方から足の先に向かってその指を動かした。景華はそんな彼の指の動きを目で追って溜息をこぼす。
「じゃあ……あれが、北極星ね。辰南の星……」
「ああ、そうだ。あんたの祖先はあの星だって言うけど、本当かな」
辰南の王族は天が下した北極星の化身だと、この国の建国神話に残されている。辰南の国民であれば、誰もが一度は耳にしたことがある神話である。
「さあ。そんな昔のこと、誰も知らないだろうし。でも、そうだったら素敵だなぁとは思う。だって、夢があるじゃない!」
そんなことを言ってから夜空に視線を戻した彼女の横顔を、しばらく見つめる。今日一日休みが当たったお陰だろうか、顔色が良くなったように見える。ここのところほんの少し熱があったようなので、彼はひどく心配していたのだ。まだまだ国の再建のために、彼女にはやらなければならないことが山積している。城にいる以上は王として気の抜けない毎日を送らなければならないのだから、せめて自分と二人でいる間位、彼女らしく過ごして欲しい。そう考えたのが、彼が景華を城の外に連れ出した最初の理由だった。……ふと、彼女が小さな体を起こした。それから、ふるりと身を震わせて自分の両腕を反対の手で温めるように擦る。
「なんだよ、寒いのか?」
「うん、ちょっと。やっぱり、羽織着て来れば良かったなぁ……」
そうは言いながらも、視線は空に戻す。どうやらまだ帰るつもりはないらしいと思いながらも、一応確認をとってみる。
「今日はもう帰るか?」
案の定、彼女は首を横に振って見せた。
「せっかくこんなに星が綺麗なんだもの。もう少し見ていたいの」
やっぱり、と思うと同時に彼の中にこみあげて来たのは、小さな体への愛しさだった。ふと柳鏡も起き上がったかと思うと、彼の腕が後ろから彼女をふわりと包み込んだ。一瞬驚いた景華だったが、次の瞬間には嬉しそうに目を細めて彼の胸に自分の背中を預けている。そのまましばらく、二人で満天の星を眺めていた。
「おばあ様がね……」
景華が僅かな嘆息とともに、小さく言葉をこぼした。聞き洩らさないようにと息をつめたことを彼女は彼が聞いているという合図だと感じたようで、続きをこぼす。
「何も、心配いらないって。龍神のことも、龍神の華のことも……」
そして、一息ついてから噛み締めるように呟く。
「子どもも、心配しなくても近いうちに授かるだろう、って……」
彼女のその呟きに、彼は思わず目を見張ってしまった。彼女も、そのことを気にしていたのかと思って……。確かに、そろそろ子どもが欲しい、なんて話を彼女もしていた。そして、自分もそれに同意していた。だが、心のどこかにまだ現在の幸福を疑う思いがあったのだ。本来結ばれないように運命付けられていた二人が、結ばれてしまった。それでも運命が均衡を保とうとすれば、どうなるだろうか。それを考えた時に至った結論が、自分たちは子どもを授からないのではないか、というものだった。結ばれるはずのない二人だから、子孫なんて本来生まれるはずがないのだから……。
「どういうことかよくわからなかったけれど、おばあ様が言ってたよ。柳鏡は、もう龍神なんかじゃないって……。今はもう一人の人だから、だから、何も問題はないって……」
ふと彼の腕の中から目だけを上にあげて自分の返答を待つ彼女に、彼は微笑みかけた。その時の彼がどんなに穏やかな表情をしているか、彼自身は知らない……。
「……そうか……」
できるだけいつものように、素っ気なく言ったつもりだった。それなのに、彼のその意に反して口から出て来た短い言葉には、彼の万感の想いが込められていた……。
夏の短い夜が、幸福の余韻を残して、ゆっくりと更けて行く……。