【第4部】第20話 記録と材料
夜——
宿の一室。
机の上に、紙が広げられていた。
俺は腕を組み、
しばらくその文字列を見つめていた。
扉の外から足音がする。
軽いノック。
「起きてるか」
「起きてる」
イロハが入ってきた。
腰をさすりながら、椅子に腰を下ろす。
「何の用だ?」
俺は紙を指で叩いた。
「報告書だ」
「梅毒の件か」
「ああ」
イロハは紙を見た。
少しの沈黙。
文字を追っている。
そして顔を上げた。
「……読めん」
「知ってる」
「だから、口で言う」
少し間を置く。
「観察対象、スズ。接触期間、約一ヶ月」
「……」
「同居、食事、近距離会話、長時間接触」
「……」
「だが――」
俺は言った。
「俺も、お前も、発症していない」
静かな沈黙。
「結論としては?」
俺は少し迷ったが、言った。
「空気感染の可能性は、ほぼない」
イロハは頷いた。
「妥当だな」
俺は続ける。
「接触感染、もしくは体液感染の可能性が高い」
「それも妥当」
イロハは背もたれに寄りかかった。
「だがな……」
俺を見て言う。
「その結論、上には通らんぞ」
俺は首を傾げた。
「なぜだ」
イロハは指を三本立てた。
「理由は三つだ」
一本目を折る。
「隔離の方が安い」
二本目。
「呪いとか穢れとか、そういう話にした方が教会が儲かる」
三本目。
「恐怖の方が、民衆は従う」
沈黙。
俺はしばらく動かなかった。
「……つまり」
「コストだ」
イロハは即答した。
「被害者の数より、管理のしやすさの方が優先される」
俺は報告書を一瞥した。
「では……どう書けばいい」
「断定するな」
「?」
「『可能性が低い』で止めろ」
イロハは続けた。
「研究報告の形にしろ。後方支援部隊の上官に渡せ」
「それで変わるのか」
「分からん」
即答だった。
「軍が握り潰すかもしれん。教会に止められるかもしれん」
俺を見る。
「正直、そこはどうでもいい」
「……どうでもいい?」
「記録が残ればいい」
イロハは紙を指で叩いた。
「お前の名前でな」
「……」
「今は変わらなくても、後で誰かが読む」
少しの間。
「歴史が、証明する」
その一言を言って、イロハは部屋を出た。
部屋は静かになった。
俺は椅子に座り直し、
もう一度、ペンを取った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
魔王城——
評議会の間。
重い扉の奥で、
数人の評議員が円卓を囲んでいた。
「人間側の動きは?」
「国境付近での兵の増強を確認」
「理由は?」
「不明」
沈黙。
一人が言う。
「魔素の確保を急がせろ」
「だが問題は大義名分だ」
「攻める理由が必要になる」
「民衆が納得する理由もだ」
別の者が続ける。
「魔王様は消極的だ」
「ならば、世論を動かす必要がある」
「恐怖か――」
「被害か――」
「裏切りか――」
その時だった。
外が騒がしくなる。
窓の外に、強い光が走った。
一同が立ち上がり、外を見る。
次の瞬間——
城の上空から、声が響いた。
拡声魔法。
若い男の声だった。
「俺は勇者ユウキ!!」
空気が震える。
「悪の根源を倒しに来た!」
城内がざわつく。
声は続いた。
「魔王を出せ!!」
一瞬の間。
そして――
「それと」
声が、少し低くなる。
「裏切り者のイロハもだ!!」
評議会の間に、静かな沈黙が落ちた。
一人が、ゆっくり口を開く。
「……これは」
別の者が笑った。
「使えるな」
円卓の空気が変わる。
「勇者が来た――」
「人間の脅威——」
「侵略の証拠——」
誰かが言った。
「大義名分は、出来た」
外ではまだ、
勇者の光が空を照らしていた。
世界が、動き始めていた。




