【第4部】第1話 境界線
水平線の向こうに、影が浮かんでいた。
島だ。
魔族領の最前線。
人間側の地図には、名前すら載っていない。
軍に所属しないと、存在すら知らない島。
魔族国リベルタス――
軍船の甲板で、俺は腕を組んでいた。
潮風が強い。
空は曇天。
海は静かだが、どこか重たい。
「……あれが魔族領か」
隣で、カイムが短く答える。
「正確には、最外縁の島だな。本土ではない」
「十分だ」
俺は目を細めた。
「さて」
少しだけ、口角が上がる。
「どうやって渡るかだが……」
「だから」
カイムが即答する。
「遠慮なく背に乗れ」
「断る」
「即答か」
「怖い。落ちる」
「落ちない」
「想像してみろ。オッサン二人でおんぶだぞ?」
カイムは肩をすくめた。
「ではどうするんだ?」
俺は、島と海面を交互に見る。
波間の距離——
風向き――
船の速度——
「……足裏魔法ダッシュで行けないかと思ってな」
「例のか」
「ああ」
カイムは、ため息をつく。
「成功率は?」
「分からん」
「分からんのか」
「だから試す」
沈黙。
数秒後。
「……溺れたら助けろ」
「はいはい」
カイムは、すでに諦めた声だった。
俺は甲板の端へ歩く。
海兵たちの視線が集まる。
誰も止めない。
止めても無駄だと、知っている顔だ。
――水面を踏む瞬間、魔法を射出する。
重力に対して、瞬間的な反発ベクトルを作ればいい。
理論上は可能だ。
問題は――
俺は船の縁を蹴った。
身体が空へ浮いた。
そして、落下――
海面が迫る。
足が触れる――
その刹那、
俺の脳裏に疑問が生まれた。
――熱源魔法を応用していいのか?
次の瞬間。
ジャブン――!!
盛大な水柱が上がった。
「ぶはーッ!!」
海面から顔を出し、激しく咳き込む。
潮水が口に入る。
しょっぱい。
普通にしょっぱい。
服が、水を吸って重い。
「……何をやってるんだ、お前」
上空から、カイムが呆れた声を落とす。
「ちょっと考え方を変えた……!」
「結果がそれか」
「一度船に乗せてくれ!」
数分後——
俺は、ずぶ濡れのまま甲板に戻っていた。
海兵たちが、微妙に目を逸らしている。
笑ってはいけない空気だ。
カイムが腕を組む。
「……で、何の考え方を変えたんだ?」
俺は、服の水を払いながら答える。
「ファイアーボールじゃダメだってことだ」
「?」
「熱源はエネルギーだ」
海面を指差す。
「海上では、熱が拡散する。推進力が消える」
「……なるほど」
カイムが頷く。
「ならバーストか?」
「バースト……あぁ、爆発魔法か」
俺は首を振る。
「爆発はベクトルが散らばる。推進には向かない」
「だったら?」
俺の視線が、海を捉える。
「ウォーターボールだ」
「水魔法か」
「唯一、質量がある」
海風が、二人の間を抜ける。
「水に、水をぶつける方が合理的だ」
カイムは、少しだけ笑った。
「……やはりお前は変だな」
「その言葉には、もう慣れた」
俺は再び、甲板の端へ立つ。
「行くぞ」
「勝手にしろ」
跳ぶ。
足が水面に触れる、その瞬間――
――ウォーターボール!!
水が爆ぜる。
俺の身体が、前方へ加速した。
一歩——
二歩——
三歩——
水柱が、連続して弾ける。
「おお……」
誰かが、甲板で呟いた。
俺は振り返らない。
そんな余裕はない。
……必死だ。
――これヤバい!!
――重心ズレたら終わりだ!!
腹圧を固める。
ただ、 島へ一直線に進む。
風を切る音。
水を裂く衝撃。
「行け……る、ぞ!?」
自分に言い聞かせる。
次の瞬間——
背後で、空気が震えた。
カイムが跳んでいた。
翼を広げ、海上を滑空する。
「遅れるなよ」
「話しかけんなっ!!」
二つの影が、境界線を越えていく。
島が近づく。
黒い岩肌。
人工物の気配。
監視塔。
完全な魔族領――
減速。
着地。
俺の足が、濡れた岩へ触れた。
カイムも、隣へ降り立つ。
「はー、はー、はー……」
「おい、大丈夫か?」
「これ、ヤバいぞ……
とんでもない体幹トレだ……」
数秒の静寂。
遠くで、警鐘が聞こえる。
塔の上。
影が動く。
槍。
弓。
魔法陣。
照準が、こちらを向いている。
カイムが、小さく息を吐いた。
「……歓迎されていないな」
「当然だ」
俺は肩を回した。
「さて」
ゆっくりと、島の奥を見据える。
「腹減ったな」
カイムが無言になる。
「……最初に言うことがそれか」
「重要だ」
俺は真剣だ。
「話し合いは、空腹では成立しない」
警鐘が強く鳴り響く。
兵が増えるのが分かる。
魔族の気配が、確実に近付いてくる。
俺は一歩、前へ出た。
その足取りは――
まるで、敵地に入る者のものではなかった。
「助けてくれー。
人間の世界から逃げてきたんだー」
俺は両手を挙げた。
「……せめて感情を込めろ」
カイムは、ため息混じりに呟いた。




