【第3部】第28話 旅立ちの準備
孤児院の裏庭に、乾いた風が抜けていた。
吊るされた布の上には、
すり下ろされた山芋が薄く広げられている。
白く、粘り気のあるそれは、
陽を浴びてゆっくりと水分を失っていた。
俺はそれを指で軽く触り、乾き具合を確かめる。
「……いい感じだな」
「それが、例の保存食になるのか?」
背後から声がした。
振り向くと、
カイムが木陰に寄りかかって立っていた。
顔色はもう悪くない。
傷も、塞がっている。
「魔力は戻ったのか?」
「……ああ。飛べる、問題ない」
短く答える声音には、
何かを探るような色があった。
しばらく沈黙が落ちる。
カイムは、
乾燥途中の山芋を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「なあ、イロハ」
「なんだ」
「お前……軍の人間だったのか」
俺は肩をすくめた。
「軍にはいたぞ」
「……それだけか?」
「面白そうだったから、首突っ込んだだけだ」
カイムが眉を寄せる。
「……軍師だと聞いた」
「あいつらが勝手に任命した」
布の端をめくり、乾きの甘い部分を裏返す。
「俺は使えるから、使った。
あいつらも、俺を使いたい時に使っている。
お互い利益が一致してるだけだ」
「……」
カイムは黙り込んだ。
何か言いたげだったが、結局口を開かなかった。
その代わり、視線だけがゆっくり俺に向いた。
「……お前は、不思議な奴だな」
「よく言われる」
俺は乾いた山芋を軽く砕きながら答えた。
昼過ぎ――
子供達が庭で遊び始めた頃、俺は院長室に向かった。
机の上に数枚の紙を広げる。
そこには簡単な図と手順が書き込まれている。
院長はそれを、
まるで壊れ物でも扱うように両手で持っていた。
「ちなみに、カイムに書かせた」
「意外と達筆なんですね。
そして、これが……」
「あぁ。軍用の携帯食になる」
院長の目が少しだけ大きくなる。
「ただの焼き小麦とは違うんですね」
「別物だ」
俺は椅子の背にもたれた。
「山芋を粉にする方法——
水が少なくても作れる生地——
乾燥保存の手順——
……全部書いてある」
「……販売すれば、大きな収益になります」
「売るな」
即答した。
院長が瞬きをする。
「これは市場に出すな。
孤児院の看板は、あくまで焼き小麦だ」
「……理由を、聞いてもよろしいですか」
俺は少しだけ天井を見上げた。
「軍がここを守ってる理由は何だと思う」
「……安全確保、ではないのですか」
「違う」
俺は院長を見る。
「価値があるからだ」
静かに言い切る。
「価値が消えた瞬間、警備も消える」
院長は言葉を失った。
「このレシピは、軍にしか出すな。
しかもすぐには出すな」
「……時間を置く、ということですか」
「そうだ。
孤児院が軍に関与している意味を、長く保て」
院長はゆっくり息を吐いた。
「……子供達を守るため、ですね」
「結果的にはな」
俺は肩をすくめた。
「軍に首輪をつけておくんだよ。こっちがな」
院長は、少しだけ笑った。
それは、覚悟を決めた人間の笑いだった。
「……分かりました。
この紙は、私が責任を持って保管します」
「それでいい」
俺が院長室を出た頃、
夕暮れが庭を染めていた。
子供達の笑い声が遠くで弾んでいる。
焼き小麦の香りが、風に乗って漂ってきた。
俺は、廊下の窓から外を眺めた。
「……楽しそうだな」
背後から声がかかる。
カイムだ。
「そうだな」
「魔族の国には、あまり無い光景だ」
「人間の国にも、そんなに無いらしい」
俺は小さく笑った。
「……出るのか」
「そろそろな」
「分かった」
外では、子供達が兵士に鬼ごっこを仕掛けていた。
逃げる大人と追う子供。
それを見て、別の子供が笑い転げている。
二人で、その光景をしばらく眺めた。
「……イロハ」
「なんだ」
「お前は、どこへ行く」
少しだけ考える。
「美味い飯がある場所だ」
カイムが呆れたように笑った。
「……本当に、それだけか」
「それだけで十分だ」
夕陽が沈みかけていた。
孤児院の影が、長く庭へ伸びていく。
子供の笑い声が、兵士の鎧に跳ね返っている。
焼き小麦の匂いが、静かに夜に溶けていく。
――ここは、もう大丈夫だろう。
そう思った。




