【第5部】第9話 根
執務室に、ほのかな香りが漂っていた。
侍従長が一歩下がって立つ。
「――以上が、
イロハ殿からのご相談でございます」
私は、手元の瓶を見つめていた。
透明な液体。
控えめな香り。
「髪用の洗浄剤、か」
「リンスインシャンプー、と呼んでおりました」
瓶を回す。
「で……
あの隔離施設を孤児院として運用する、と」
「えぇ。戦争による孤児の増加。
生活困窮家庭の子供の受け入れを、
想定しております」
沈黙。
私は、ゆっくりと椅子にもたれた。
「……イロハ殿らしい」
侍従長は静かに続ける。
「孤児院の運営費の一部は、
この洗浄剤の受注生産で賄うとのことです。
貴族向けの高級品――
その様に展開予定でございます」
「なるほど」
瓶をそっとテーブルに戻す。
「民を救い、民の金で回すか」
一拍。
「良い」
侍従長が頭を下げる。
「では、正式に支援を――」
「いや、待て」
侍従長が顔を上げた。
「その考えなら、
魔族領全体に広げた方がよいのではないか?」
静かな一言だった。
「孤児院を各地に設置し、
同様の仕組みで自走させる」
侍従長の目が細くなる。
「……かしこまりました。進言してみます」
私は頷いた。
「イロハ殿のやり方は、戦後にも残る」
一拍。
「そういうものを、増やしておくべきだ」
静寂。
そして、私は侍従長へ視線を向けた。
「ところで」
「はい」
「何を食べた?」
侍従長は一瞬だけ目を瞬かせた。
「……うどん、と言っておりました」
「美味かったか?」
「えぇ。とても」
私は少し考え、
「そうか」
とだけ言った。
その夜――
浴室に湯気が立ちこめる。
私は、瓶の中身を手に取った。
香り。
控えめな泡立ち。
洗い流すと――
指が、止まらない。
さら、と落ちる。
もう一度、触る。
「……ほう」
髪が軽い。
「これは、良いな」
湯気の中で、私は何度も頷いた。
「私も買うぞ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
石の家の中――
窓際に、小さな鉢が置かれていた。
白い花。
俺は立ち止まる。
「……ん?」
スズが振り向いた。
「あ、それ」
「買ったのか?」
「ううん。カイムさんが持ってきてくれた」
スズは少し嬉しそうに言う。
「私の名前になった花でしょ?」
スズラン――
俺はしばらく花を見た。
そして、小さく頷く。
「……瓶に刻むか」
「え?」
「ロゴだ」
スズが首をかしげる。
「国には紋章があるだろ?」
一拍。
「このスズランを、瓶に刻む」
スズの目が少し大きくなる。
「……いいの?」
「ああ」
一拍。
「これは、お前の物だ」
沈黙。
スズは花を見る。
そして、少しだけ笑った。
「……ありがとう、イロハ」
俺は周囲を見回した。
「で、カイムはどこ行った?」
「買い出し」
「そうか」
一拍。
俺はスズに伝える。
「ここを、孤児院にする」
スズが目を瞬かせた。
「公園も、家も、まとめてな」
静かな声だった。
「戦争が始まる」
風が入る。
ラベンダーの香りが広がる。
「子供が増える」
一拍。
「腹減った子供が、な」
スズは少しだけ考えた。
それから、笑った。
「……私の家が、孤児院かー」
窓の外では、小さな子供たちが走っている。
「賑やかになるね」
俺は頷いた。
「手が空いた時でいい」
一拍。
「手伝え」
「うん」
風が、子供たちの声を届ける。
白いスズランが、 静かに揺れている。
この場所は――
"家"から、
"ホーム"になろうとしていた。




