【第5部】第3話 甘いもの
「手伝ってもらった礼だ」
人間――
恐らく、この者がイロハ本人でしょう。
隣におられる閣下も、既にお気づきのはず。
それにしても――
――礼が、料理……ですか。
こう見えても、
私は閣下の侍従長です。
閣下の召し上がるものは、
毒味を含めて同じものを頂いている身。
それ相応の物を、
食べてきた自負はありますが……
――困りましたね。
どんな物が出るやら……
人間は作業台の上に材料を並べた。
小麦粉――
卵――
牛乳――
蜂蜜――
私は眉をひそめる。
「……料理がお得意なんですか?」
「ん? 普通だ」
――普通、ですか。
――それが一番信用できませんね。
人間は卵を割りながら言った。
「今日は子供たちも楽しみにしてる」
閣下は興味深そうに覗き込む。
「何を作るのだ?」
「パンケーキ」
聞き慣れない言葉だった。
――危険物の可能性は無し。
人間は卵を二つに分けた。
黄身と白身。
そして白身の入った器を手に取り、
ひたすら混ぜ始めた。
シャカシャカシャカシャカ――
止まらない。
私は口を挟む。
「……おやめください」
「?」
「そこまで泡立てて、どうするおつもりです」
「メレンゲを作る」
「……労力の無駄では?」
返事は無かった。
ただ、混ぜ続ける。
やがて白身は液体ではなく、
白い雲のような塊へと変わった。
そこへ、
小麦粉――
牛乳――
蜂蜜――
ゆっくり混ぜる。
鉄板へ落とすと、生地がふくらみ始めた。
甘い香りが広がる。
子供たちが集まってくる。
閣下は小さく呟いた。
「……いい匂いだな」
焼き上がったそれは、
見た目だけなら丸いパンだった。
人間は上から蜂蜜をかける。
その蜂蜜は、薄く紫色をしていた。
「ラベンダー蜂蜜だ」
「ふむ。香り付けか」
私は前へ出る。
「私から頂いても、よろしいです?」
――毒味、と言ったら怪しまれますからね。
私はフォークを取り、一口運ぶ。
そして――
止まった。
――……!?
思考が止まる。
舌の上で、それは溶けた。
――なんですか……これは……?
軽い。
柔らかい。
噛む必要すらない。
まるで――
雲を食べているようだった。
――我々の知るパンという概念が……
――根底から書き換えられていきます……
次に来たのは甘み。
蜂蜜の濃さを、
牛乳と卵がやさしく包み込む。
強くない。
だが――
抗えない。
そして最後に香りが来る。
ラベンダー。
その香りが鼻へ抜けた瞬間――
――あ……
――あぁ……
肩の力が抜けた。
胸の奥の緊張が、すっとほどけていく。
――いけませんね。
――毎日の評議会との調整。
――閣下の予定管理。
――国境の報告。
――難民問題。
――財政。
――軍備。
――私の血管は、
――いつ切れてもおかしくなかった……
深く息を吸う。
――落ち着く。
――これは……
――食べ物ではありません。
――強制的な休息です。
目を閉じる。
――もし閣下がこれを召し上がったら、
――今日はもう仕事をなさらないでしょう。
――明日の予定が、すべて崩れます。
沈黙。
――ですが。
もう一口。
――あと少しだけ。
さらに一口。
――毒味を続けさせていただきます。
――私の胃が今、
――休息を求めているのですから。
横から声がした。
「……私も、そろそろ食べたいのだが」
私はゆっくり振り向く。
フォークを差し出した。
閣下は一口食べた。
咀嚼。
沈黙。
もう一口。
そして言った。
「……甘いな」
しばらくして、もう一言。
「……悪くない」
子供たちが笑っている。
蜂蜜で手を汚しながら、夢中で食べている。
誰も――
国境のことを知らない。
誰も――
軍備のことを知らない。
誰も――
戦争の準備が進んでいることを知らない。
閣下は、子供たちを見ていた。
静かに言う。
「……ここは、」
一拍。
「守る価値があるな」
報告書には、
こういうものは、載らない。




