53. 小さな旅路の終点
イルヴァンが話題になっているころ、アルシェスタは多くの貴婦人の相手をしていた。アルスの身分のときにも好き勝手にかわいがる彼女らは、何故かアルシェスタの姿であっても容赦がなかった。くるりと毛先が巻かれたサイドテールを揺らしながら、アルシェスタは輪の中心で微笑んでいた。
ドレスのことを聞かれて、アルシェスタは人形の意図を伝えるとともに、小さく呼吸をして心の準備を整えると、かろうじてその言葉を紡ぎ出した。
「このドレス、お母様が選んでくださったのです」
「まぁ。キングレー伯爵夫人が?」
「お母様にとっては、私はまだ小さな少女なのでしょうね。学院に入って、少し背伸びをしたくなって、大人っぽいドレスを着たくなっていて、全然こういったドレスを着る機会はなかったのですが」
「ですがアルシェスタ様にはお似合いですわ。本当に愛らしい。ふふっ。キングレー伯爵夫人のお気持ちが分かるわ。こんなにかわいい娘には、かわいいドレスを着させたくなるものね」
年齢は置いておいて、実際にアルシェスタにかわいい系のドレスは似合うのだろう。顔立ちが幼いのに加え、背も低く、手も小さく、体型も――主に胸の周囲は物足りない。
とはいっても、この手のドレスを社交界で着るのが許されるのは学院を卒業するまで。たいていの息女は、学院に入る頃には卒業する少女趣味のドレス。
「わたくし、以前に一度、小さなころのアルシェスタ様とお会いしたことがあるのですけれど……あのときのあなたは、天使みたいにかわいらしかったもの。久しぶりに会って、随分と成長したことを知っているけれど、あの時から変わったお姿を知らなかったら、わたくしもきっと同じようなドレスを選んでしまうと思うわ」
その言葉を聞いて、妙にすとんと胸に落ちたものがあった。
リナーシェは、ただアルシェスタに少女趣味のドレスを着せたかったのではない。
知らないのだ。
今のアルシェスタを。成長し、言うことを聞かなくなったアルシェスタを。
男の子の服ばかりを身に纏っていたアルシェスタの成長を、母は正しく認識できていないのだ。
だから昔の影に囚われる。小さなアルシェスタに、リボンとフリルがたくさんの服を着せたがる。
ぬいぐるみを抱きしめさせたがる。
リナーシェの中で、アルシェスタの記憶は11歳で止まっているのだ。それ以降は徹底的に避けたから。娘が大きくなっていることを知っているけれど、その現実を完全には認識できていないのだ。
「もうそろそろ、こんなにかわいいドレスは着られなくなってしまいますけれど、最後に着られて良かったです。想い出になりました」
「本当。でも、私の勘が正しければ、このドレスは卒業までに着るものとして流行るわよ」
「まぁ。そんなこと」
「だって皆アルシェスタ様のことを見ているわ。羨ましいのよ。本当にかわいいドレスを、着こなしていらっしゃるから。ふふ、いいお母様をお持ちになったのね」
その言葉に、アルシェスタは微かに心を揺らした。
自分の感情がよく分からない。義務なのか、それとも――。
けれどアルシェスタの口からは、するりとその言葉が出た。
「はい。不器用ですけれど、優しいお母様です」
借りは返した。だからもう一生社交場で卑屈な姿を見せるな。アルシェスタは、そんな思いを込めた瞳で、母を一瞥した。
その後のことは、あまりちゃんと覚えていない。少し話し疲れて、アルシェスタはデッキへと出た。静かな夜のデッキには、微かな照明の光だけが灯っている。潮風にあたっていると、頭が少しずつ冷えてくる。
「シェス様」
後ろから声が聞こえて、振り向くとリリーナが立っていた。かわいらしいピンクのドレスはいつも通りだが、今日はアルシェスタもかわいい系のドレスなので、隣に並ぶときに少しだけ緊張する。
「こんばんは、リリーナ様。パーティー、楽しんでいただけていますか?」
「はい! すごく素敵な船ですね。私、こんなに大きな船、初めて乗りました」
「それはようございました」
「シェス様、ドレス本当にかわいいです! こんなにかわいいドレスが似合うなんて、本当に羨ましいです!」
「少し見た目が幼いだけですよ。もう数年すれば、全然似合わなくなってしまいます」
リリーナも自然に手すりに体を預けて、二人横に並ぶ。汽笛が遠くに聞こえる。この膨大な船を動かすのに必要な魔導エネルギーは、水中を巡回しては船に戻ってくる。
「ダンスは、いいんですか? 踊らなくて」
「……えへへ。実は、誘ってくださる人がいなくて。サマーパーティーがモテすぎていたんですね」
「そうそうたる面々でしたね。ですが、そうですか……リリーナ様のパートナーを務めてくださる方……」
「い、いいんです! 私みたいな小さな男爵家の娘に、構う人なんてそんな、いなくて当たり前なので……。せっかくなら、素敵な人と出会いたいと思いますけど、今はとにかく、立派な淑女になるほうが優先ですから!」
リリーナの立場があれば、そろそろ下位貴族から縁談があってもおかしくはないと思う。ただ、王家が睨みを利かせているので、利だけでリリーナと縁を結ぶのはなかなか難しい状況だ。
何よりも、リリーナの気持ちが大事だ。彼女を慮り、貴族社会を共に生きて行ってくれる人にしか、王家は首を縦に振らないだろう。
リリーナの評価は善良な者とされている。彼女には隷属や懐柔といった手段は検討されていない。今の平和な時代に、そんな手段が必要とも思えないが、時代が時代なら、リリーナは今頃、王家によってどんな風に囲われていたか分からない。
だから、リリーナにはパートナーを自分で見つける権利がある。素敵な人と出会えたらいいな、と思う。
アルシェスタは自然と手を差し出した。リリーナがおずおずとそれを取ると、静かなデッキの上で、微かに聞こえる管楽器の音に身を任せながら、ゆったりと彼女をリードして踊り出す。
「シェス様、やっぱり男性パートお上手……れ、練習されているんですか?」
「ふふ。どんな技能がどこで役に立つか分かりませんから。実際に、リリーナ様のダンスの修練には役に立ちましたし」
「……シェス様って、なんでそんなに完璧なんですか? 本当に、何でも出来て驚いてしまいます」
「何でも、ではないですが」
どうしてか、彼女にならば自然に話すことができる気がした。家の恥を外には晒さないようにしながら、言葉を選んで彼女に語る。
「幼いころから、ずっと貴族教育を受けていました。6歳から10歳までで、普通の貴族が15歳から18歳くらいまでで習得する内容を、全て終えてしまいまして」
「えっ。そ、そんなに早く、ですか?」
「ええ。その代わり、私には遊ぶ時間なんてありませんでした。勉強も、作法も、芸術も。何もかもが毎日、朝から晩まで詰まっていて、息ができなくて」
休憩時間はあったが、休む時間はなかった。眠っている間も悪夢に晒されて、精神は疲弊するばかりで。
寝ても覚めても変わらない、閉ざされた現実に、囚われていた。
「学んだ分だけ、それらはすべて私の力になった。けれどその代わり、色々なことが、よく分からなくなってしまって。世界がずっと、灰色なんです。それに色を付けてくれるものを、ずっと探している」
「……」
「ふふ。王都に出て来てからは、私の世界に色がついて来たんです。……自分らしさを探して、それを貫き通す手段も得られました。過去のあれらが決して無意味ではなかったと、そう思えるから、私は前を向いていられます」
家出の結果は、非常に良好だ。王都に行って、色々なものを知って、遊ぶことを覚えた。
他家の貴族のことも知って、反面教師のような出来事が大量に起こって、幼少期の自分に起きていた出来事についても、多少の理解が得られた。
感情を失っていた世界が色づいていく感動は、今も忘れない。そして色を付けるための基礎的な部分は、色を失う過程ですでに身についていた。
視野を広げ続けること。今のアルシェスタに必要なのは、囚われないこと。型破りな貴族の娘である以上は、見える範囲を狭めたり、しがらみに囚われるわけにはいかない。
――つらいことも、あるけれど。
でも、そんな顔は、彼女に見せる必要はないものだ。
「最初から完璧な人間なんていません。私は少し、人よりも捧げた幼少期が多かった、それだけのことです。ある意味で、恵まれているとも言えますね」
「そうだったんですね……ごめんなさい、私、全然知らなくて。シェス様は何でもできてすごい、きっと才能が違うんだ、なんて思ってました」
「私、貴族の娘としての振る舞いは少し苦手なんです。もっと自由でありたい。いつもそう思っています。だからリリーナ様が、素敵な淑女を目指したいって仰るなら、私なんてすぐに追い抜けますよ」
「絶対に無理です! でも、いつかシェス様に立派な淑女と認めて貰えるように頑張ります!」
彼女の手を引いて、軽やかにステップをする。彼女の吸収力は大したものだ。このまま続けて行けば、いずれアルシェスタを超えてくることもあるだろう。
でも、そのときまでは、せめて彼女をこんな風にリードしたい。彼女の、力になりたい。
気が付けば、音が止んでいて、ステップを止める。「お開きですね」なんて言葉を交わして、二人で静かに陸の方を見やる。
そこに溢れていたのは、光、光、光。美しい海辺の町を飾る証明が、まるで星空のようにきらめいているのがよく見える。
きっと、綺麗なんだろうと思っていた。海から見る、夜の街は。けれど思っていた以上に、その世界は美しく輝いていて――。
「綺麗……」
リリーナが漏らした言葉に、小さく頷いた。
そしてアルシェスタはしばらくその光景を眺めていて、はっとする。
――頭の中に、何かが過る。アルシェスタは、この光景を、知っている。どこかで、見たことがある。
(あの夢の、光……?)
いつか見た、不思議な夢。その中で見やった光の海に、その幻想的な光景は似ていた。
けれど、何かが違う。既視感があるのに、これは――。
角度が違う――?
そんな考えをしていると、後ろから声を掛けられて、振り向いた。そこには、アルシェスタを探しにやって来たイルヴァンがいた。リリーナはそれに気が付くと、頭を下げて、軽くイルヴァンと挨拶を交わすと「先に戻っていますね」と声を掛けて、デッキを立ち去って行った。
イルヴァンはごくごく自然に、アルシェスタの隣へと移動すると、そのまま二人でしばらく、夜景を眺めていた。
こうして、キングレー伯爵領での、短かったような、長かったような一節の学院旅行が終わった。
色々な問題点が浮き彫りになった旅行だったが、アルシェスタが得たものは多かったような気がした。
ただ、豪華客船で、楽しそうに過ごす彼ら彼女らを見ても、何故か十分に満たされなかった心だけが、アルシェスタの中で確かな疑問としてわだかまった。
学院旅行編、終了です。
この後短めの学院祭編を挟んで、その後は時系列ごとではなく、エピソードごとに章を分けて書いていく予定です。




