夜明け
世界がぐるぐると揺らされているようだった。目が回る目眩は、気持ちがいいものではない。身体が酷く痛く、魘されているように意識が浮いては沈んだ。
目を開く度に映るのは、藍色の夜空と満月。そして私を抱えた彼。夜空色の瞳で私を心配そうに見つめている。私はなにも応えることが出来ず、また気を失った。
まるで、空を飛んでいるように感じる。夜空を彼に抱えられながら、飛び去っているように思えた。
冷たい夜風に撫でられて、痛みは少しずつ拭われるようだった。
一度瞼が閉じて意識がなくなったあと、また目を開くと、空が赤色に染まり始めていた。夜明けだろうか。
夜が似合う人だと思っていたけれど、夜明けの空の下の彼はとても――――素敵に見えた。
次に目覚めた時、畳の匂いを吸い込んだ。若葉色の畳の上に横たわっていたから、そっと撫でてみる。現実かどうかを確かめるため。
その手がやけに色白くなっていることに気付く。爪が少し尖っていて指が伸びたように見える。
夜が明けたのか、空がほんのりと明るさを帯びていた。
畳の隣には、木目がはっきりした焦げ茶の縁側。そこに小さな生き物達がいたから、少し驚いた。私の頭くらいのサイズの2頭身。一番目に焼き付いたのは一つ目小僧みたいな風貌の生き物。
でもその生き物達の方が驚いたようで、たちまち逃げ出す。
「あ、目が覚めた? ごめん、布団を敷いていたんだ」
彼の声が後ろからしたから、ゴロンと振り返る。
高い天井は縁側と同じ木目。その下を彼が微笑みながら歩み寄ってきた。
私は起き上がろうとしたのだけれど、畳に立てた腕に力が入らず俯せになってしまう。起き上がろうとして気付いた。自分が着物を着ていること。白を基調にした着物みたいだ。
「まだ暫くは横になっていた方がいい。鬼に成りたてで、生まれたてと同じなんだ」
すぐに彼が私の元に膝をつくと支えてくれた。
鬼に成りたて……。
本当に、私は彼に命を分け与えられて、鬼になったの?
自覚がなくって、私は呆けてしまう。顔を上げて、夜明けに照らされた彼を見る。
「吸血鬼……なのですか? けほっ」
声が出た。
でも少し喉が渇いていたから咳をする。それで思い出す。私は事故に遭って、ベッドから動けない状態だった。なのに、怪我らしい痛みはない。力が入らなくても、動けている。怪我が、治ったんだ。
「血を吸う鬼……うん、世間ではそう呼ばれているのかな。血を飲んで生きている鬼だよ」
彼は少し考えるように首を傾げたけれど、微笑んで答えてくれた。
「妖でね、僕は人の目にも映る、だから君とも話せた。でも他の妖には難しい。君はもう鬼だから、妖が視える。さっきの彼らは君が起きるまで見守ってくれていたんだ。あ、着物は狐の妖さんに着させてもらったんだよ」
優しく話してくれるけれど、私はまた呆然としている。
「大丈夫かい? 辛いなら横に……」
「あ、ありがとうございます」
私を敷いた布団の方に運ぼうとしたけれど、私は彼の羽織を掴んだ。
「ありがとうございますっ」
お礼を言わなくてはいけない。
だって、私は生かされた。
命を分け与えてもらって、救われた。
「ありがとうございます、救ってくれて……ありがとうございますっ」
心を救われた。
暗闇にいた私に月明かりで照らして、救ってくれた。
それだけじゃなく、命まで。
「貴方のそばに置いてくれて、ありがとうございますっ……ありがとうございますっ」
彼のそばで生きる。
そんな世界で一番我が儘に思えてしまう願いを叶えてくれた。
涙が溢れて止まらない。
どんなにお礼を言っても足りない気がして、何度も何度も数え切れないほど言った。
「ありがとうございますっ」
彼は藍色の瞳で優しく見つめて微笑みながら、私の涙を拭ってくれる。
冷たくない掌の優しさ。
私は余計泣いてしまいながら、何度もお礼を言った。
彼は泣き止むまで、ずっとそばにいてくれた。
夜明けを浴びながら――――
それから数日。起き上がれず、ずっと横になって過ごした。山奥の大きな屋敷には、小さな妖達が訪れてきてくれた。
動物や植物が妖になったものらしい。鹿の顔をした妖や、白の毛にまみれたボールサイズの妖もいた。
妖は彼のことを「主様」と呼ぶ。
千年生きた鬼だから、とても強い妖で、この森のボスとして慕われているらしい。
そんな彼は大きな屋敷に住んでもいいと言っていたのに、どの妖も遊びに来てくれても誰も住んではくれないそうだ。だから広い広い屋敷に住むのは、彼と私だけ。
私のことは「主様の客人様」と呼ばれた。それが気にいらないらしく、彼は私の名を初めて尋ねた。
「貴方が名付けてください」
鬼になった私は、言うなれば生まれ変わったようなもの。
だから、彼に名前を貰うことにした。
少し困ったように驚いたけれど、彼はそんな無茶ぶりを受け入れた。それから3日は、硯を出して墨をつけた筆で紙に名前の候補を書き綴っては唸って悩んだ。
そんな彼のそばで、私は小さなと一緒に同じく筆で名前を書き綴った。彼に合う名前をこっそり考えて。でも彼のように悩んでしまった。
気分転換に縁側で転がり、森を泳いだそよ風に当たる。私のそばを離れようとしない彼の代わりに、小さな妖達がビー玉を持って来てくれた。それが多すぎて、今では広い屋敷のあちらこちらに落ちている。この屋敷はビー玉屋敷と呼ぶべきかもしれない。
ちょっと笑ってしまった。
一つのビー玉を手にして掲げてみる。赤い硝子の中に、太陽の光が映っていた。いつまでも、眺めたくなるのはどうしてだろう。
「なにが視えるのですか? 主様の客人様」
「なにか面白いものが入っていましたか? 客人様」
私がビー玉を見つめてにやけていたから、周りにいた小さな妖達がじゃれてきた。毛玉の妖が頬に擦り寄ったから、くすぐったくって笑う。
ビー玉に虫かなにかがいるのだと思い込んで、皆がそれを取り合った。
虫なんか入ってたら楽しいのかな?
笑って眺めた。
「こぐめ!」
そこで彼が声を上げる。
なにかと私と妖達が注目すると、彼は書き上げたばかりの紙を突き付けて見せた。
「瑚、紅、芽! こくめより、こぐめの方が可愛い響きに思えるよね」
「こぐめ……」
「うん! 君の瞳、赤色の玉石みたいになるんだ。紅色にきらめいてとても綺麗だったから。芽生えた紅色の玉石。どうかな?」
自信満々の笑顔の彼の藍色の瞳も、きらめいて見える。無邪気な姿に私は綻んだ。
多分、鬼の瞳のことを言っているのだと思う。病室で彼が見せたあの瞳の変化が、私にもあるらしいけれど私はまだ見たことない。
彼が綺麗だと言ってくれるなら、喜ぼう。
なにより、私の名前が貰えた。
「ありがとうございます。これからは、瑚紅芽と名乗らせていただきますね」
縁側から移動して、畳の上に正座して手を添えて頭を下げる。
「主様の客人様の名前は瑚紅芽様ですね」
「コグメサマ、コグメサマ」
「こぐめさまぁ」
「はい! はい、はい!」
妖達が喜んだように名前を呼んでくれたから、私は遅れながらも全部に返事をした。
「主様の瑚紅芽様」
そう呼ばれて、目を丸める。彼のものみたいな言い方。それでも構わないけれど、ちょっと顔が熱くなってしまう。
彼にとって、私は特別な友人みたいなものらしい。そこに恋愛感情はなさそうだ。
でも妖達は私達を時々夫婦だと言う。私はそれでも構わない……それを改めて考えるとやっぱり顔が熱くなった。
「瑚紅芽?」
彼が首を傾げて、私を呼ぶ。
「あっ、はいっ!」
彼が名付けた名前に、力強く返事をする。袖で頬を擦ってまぎらわせてから、背筋を伸ばす。
「あ、あのっ……わ、私も……その……貴方の名前を……その……決めても……」
こういう申し出が受け入れられるか、自信がなくてだんだん声量が下がってしまい、口を閉じてしまう。
でも、彼には伝わった。
ぱあっと輝いた笑顔をするから、きっと喜んでいる。私は安堵を覚えた。
「うんっ! 瑚紅芽から名前、欲しい! 僕に、ちょうだい?」
早く早くと言わんばかりに、彼は羽織の袖を振り回す。名前候補の紙が散乱しているから、舞い上がってしまう。
緊張で赤くなったまま私は慌てて、舞い上がる紙を掻き集めた。
「あ、あのっ、えっと……私も、貴方の瞳に関する名前とかを考えていたのですが……その……これが、いいかと……」
藍だと味気ないと思ったのだけれど、だからと言ってあまり意味を詰め込んでへんてこな名前にしてはいけないと悩んだ。
私の名前を決めてくれた彼を見て、私は一つに絞れた。
「あかつき……はどうでしょうか。夜明けの、暁。……命を分け与えられて、ここに連れてきてもらった時の夜明け……綺麗でした。夜明けも、貴方も……」
両手に持つ紙に、暁の文字。
あの夜明けは、初めて会った晩の三日月の輝きよりも、もっと特別。特別な価値がある宝のように、私にとって大事な記憶。
「その、私が……特別に思う夜明けを名前にするのは……ええっと」
耳まで赤くなったのを感じた。私の名前は私を示すもの。でもこれは、私の思いを詰めた名前だ。
口ごもっていると、彼が立ち上がって私を横切り縁側へ。
お、怒ってしまった?
やっぱり私が名付けるなんて、おこがましいことだったのかもしれない。もっと神々しい素敵な名前を提示するべきだったかもしれない。
「皆! 僕の名は暁だーっ!!」
彼は中庭に集まった妖達に向かって、森に向かって、声を上げて告げた。
振り返って弁解しようとした私は、正座したままポカンとしてしまう。
「主の暁様!」
「あかつきさま!」
「主様は暁様!」
中庭の小さな妖も、塀の向こうの森から覗く大きな妖も、彼を呼ぶ。
私が名付けた名前で。
「ありがとう、瑚紅芽」
私を振り返ると、彼は無邪気に笑いかけてくれた。とても喜んでくれている笑みの彼の瞳は、何よりも特別な輝きを持っているように見える。
翳したビー玉のように。
「私も……ありがとうございます、暁、さん」
私は緊張しながら、暁さんと呼ぶ。私に命も名前もくれたことを、そして私が名付けた名前を受け入れてくれたことも。ありがとう。
笑いかけてから、私は正座を直してまた頭を深々と下げた。
顔を上げると、彼が近かった。そう認識した次の瞬間、押し倒された。
彼に、押し倒された。認識した途端に一気に鼓動が駆けるように速まり、それに追い回されるように熱が身体中に広がった。
「ごめん、ビー玉踏んじゃった。怪我ない?」
私の上で起き上がった暁さんは、苦笑して謝る。
あ、なんだ……感極まって、抱きついたわけではないのね……
ただ転んだだけ。ちょっと残念。私なら感極まって抱き付きたいな……
「……あの、暁さん」
暁さんが上から退く前に、私は呼び止める。
転がっているビー玉が一つ手にして、彼の目の前に見せた。ちょうど彼の瞳と同じ、藍色。
「私がいつも視ていたのは……硝子玉の向こう側。探していたと思います」
前に問われた。
遠くを視ているような私が、視ているもの。
ずっと、探していたのだと思う。
「そして貴方が硝子玉の向こうに連れてきてくれました。ありがとうございます」
ここはいつも探していた硝子玉の向こう。
連れてきてくれたのは、彼だ。
見付けてくれたのは、彼だ。
暁さんはビー玉と同じ、綺麗な輝きを持つ藍色の瞳を細めて微笑む。こつりと私と額を重ねてから、両手で私の頬を包んだ。
「瑚紅芽は僕が見付けた、宝だよ」
優しく囁いてくれた。
私を宝物扱い。
照れてしまった私は、彼の両手の中で真っ赤になってしまい、袖で隠す。
真っ暗になったけれど、それを退かすと優しい輝きを持つ硝子玉の向こうが私の瞳に映った。
。終。
ヒロインと"彼"だけを描くように心掛けたのですが、最後は妖達が賑やかにしてくれました(笑)
月が満ちるまで穏やかな夜をともに過ごし、
そして明るい夜明けを迎えて、
硝子玉の中の光のように包まれた日々を送ると思うと微笑ましいなぁと思ったり。
硝子玉の向こうを覗き込むお話を目指したら、吸血鬼や妖が出る不思議で切ないお話になりました。
切ない月夜の一時を越えて、明るい夜明けを迎えておしまい。
お粗末様です。
ここまで読んでくださり、どうもありがとうございました!
20141210