13
逃げる。一緒に逃げる。
僕はその意味をよく理解できない。一体何から逃げるのか。どうして僕が逃げなくてはいけないのか。そもそも、姉さんだって能力をうまく使えば逃げる必要は無いのではないか――いや、これは出来ないから姉さんは逃げようとしているのか。何がともあれ、僕は逃げることの理由が分からない。でも、姉さんの提案はとても魅力的だった。
姉さんの提案に乗れば、姉さんは僕の目の前から居なくならないし、これ以上姉さんと対立することもない。
乗ったらダメなんだろうな、と何となくさっきの蜘蛛ちゃんの言葉から思うことができるから非常に悩ましいのだけれど。『普通』に考えたら、僕はここで通り魔と逃亡するなんて訳のわからない選択肢を選ぶべきではなく、危険な通り魔を捕まえて掃除人としての役目を全うすべきだ。頭ではなんとか分かっている。そこに、本来であれば悩むべきではなく、そもそも前者の選択肢は無いものとして考えるということだって。
姉さんがずれていると言った意味が、ここまで考えてやっとわかった気がした。なるほど、確かに僕はずれている。何処からそうなってしまったのか全くわからないけれど。何がいけなかったのだろうか。変な能力を持ったところまでは、ここにいる明紀以外の全員と同じはずなのに。
「熊くん、惑わされないでください。兎さんは熊くんの能力を使ってここから脱出することを目論んでるです」
「あら、そんなことはないわよ。私だって、愛しい熊くんと離れるのは胸が張り裂ける勢いなんだから」
「残念ですが、くもは兎さんの言葉を鵜呑みにできないです」
「ふふふ、それが賢明だわ」
信用できないとはっきり言われたのにも関わらず姉さんはとても楽しそうだった。僕から離れると、姉さんは蜘蛛ちゃんと向き合う。
蜘蛛ちゃんと姉さんの会話は、迷っている僕に決断を迫っているように聞こえる。姉さんの甘い言葉に惑わされてはいけない。でも、姉さんと離れることは辛く寂しい。よく考えてみたら、ここで僕たちが姉さんを捕まえられた場合、当然姉さんは通り魔として警察につき出されてしまうわけで、つがえたところで結局離ればなれだ。僕には姉さんを捕まえることのメリットが一切ないのである。……いや、『掃除人』という家と家族を失わないですむというメリットがあるか。
血の繋がった唯一の家族か、これからを生きるために用意してもらった家族のようなものか。家族という面で見てみれば、僕はそのどちらかを残酷にも選ばなければならないということである。
「でも熊くんは悩んでるみたいだから……私が悩まないで済むようにしてあげるわ」姉さんはそう言い、ぺろりと唇を舐めた。「みんな倒して連れ去っちゃえば、悩む必要なんてないわよね?」
不敵に笑うその顔は、ラスボスと呼ぶに相応しい邪悪さと風格を備えていた。姉さんだけど、姉さんではない。この顔はどちらかといえば兎さんの方が近い。きっと、今の姉さんのモードがそっちなのだろう。『壱之瀬紗英』ではなく、『兎』として僕たちと向き合うつもりのようだ。……いや、姉さんは最初からそのつもりだったのだろう。よく考えてみれば、姉さんは逃げようと僕に提案してきた一回を除いて、全て僕のことを『熊くん』と呼んでいる。ならば僕も、今は『姉さん』ではなく『兎さん』として見るべきだろうか?
「――なんて、どっちでもいいか」
僕はそう呟いて、姉さんを扉から遠ざけるために予め蜂から受け取っていた試験管を取りだしふたを開けた。そして、中身を腕を振って撒き散らす。
液体を丁寧に避けた姉さんは、液体によって溶かされた床を見つつ「そう。熊くんはそっち側につくのね」なんて言った。
違う。僕はまだ迷っている。だから、答えが出るまでは他の人に決められてしまわないよう、時間稼ぎをすることにしたのだ。この優柔不断さは命取りだったかもしれない。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
「――なら、こっちも躊躇なく手を出せるわ」
姉さんの言葉にぞくりと寒気がしたがもう遅い。姉さんは地面を蹴ると扉とは逆方向に走り出し、僕たちが反応するよりも先に跳んで空中で一回転というアクロバティックな動きを魅せてから、蜂の背中に回り込んだ。そしてその右腕をつかんでいる。
「さっきからずっと、この針を何とかしておきたかったのよ」
ポキリ。
小気味いい、軽い音がした。僕たちはそれがなんなのか、一瞬判断することができない。
「うあ――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!?」
そんな声を出せたのかと逆に感心してしまうような絶叫を聞いて、姉さんに腕を捕まれた蜂が右腕をおさえながら崩れ落ちていくのを見て、僕たちは漸く何が起きたのか理解した。
眠れる獅子を起こしてしまった。
「さて、次は誰かしら?」
僕たちは、捕まえることを目標とする前に、片付けられないことを目標とすべきだったらしい。




