08
跳ねるように駆ける少女は、そのまま軽やかな動きでデスクを蹴り、姉さんに手を伸ばす。二人が接触したのかどうかは分からない。だが、少女の表情を見る限りあまり芳しく無かったようだ。
「すみません、左手にかすっただけでした。不意討ちは失敗みたいです」
淡々と少女は言う。一時間前から会話をするようにはなったのだが、僕は未だにこの声と話し方に慣れない。違和感しかない。
「……こっちが本物の蜘蛛ちゃんってことかしら?」
「はい。くもが本物です。こんな形で対峙するとは思いませんでした、兎さん」
「私も想像すらしてなかったわよ。まさか、私の上をいくなんてね」
敗けを認めたような口調で姉さんは言うが、蜘蛛ちゃんはゆるりと首を振って否定した。
「くもは兎さんみたいに錯覚させてるわけじゃないです。くもはただ、見た通りのものを思考に植え付けて、先入観でがんじがらめにしただけです。蜘蛛だけに、ぐるぐる巻きです」
やろうと思えば誰だってできる。と蜘蛛ちゃんは言った。しかし、誰でも出来るかもしれないが、演じ続け、人を騙すというのはそれなりに精神力と体力を使うものではないだろうか。蜘蛛ちゃんは、『歩けない』というイメージと『喋らない』というイメージを完璧に作り上げていたのだし。それがどれだけ大変なことか、僕には皆目検討もつかなかった。
「くもは兎さんが大好きです」蜘蛛ちゃんは軽く足を開き、腰を落として言った。「だから、兎さんを意地でも捕まえます」
腰を落としたのはスタートダッシュのため。蜘蛛ちゃんは勢いよく姉さんに突進し、その腕を狙って構えた両手を突き出す。
多分、姉さんは蜘蛛ちゃんの能力を詳しくは知らないはずだ。だから、蜘蛛ちゃんの攻撃に細心の注意を払い、最も警戒するだろう。ならば、その虚をつけばいい。
「ッ!?」
蜘蛛ちゃんの攻撃から逃れるため後ろに跳んでいた姉さんの左右から、今度は二人の金髪が襲い掛かる。姉さんには、今どんな風に見えているのだろうか。蜂が二人になったように見えただろうか。
「――なるほど、忘れてたわ」
一瞬驚いた顔をした姉さんだったが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。そして、ペロリと舌なめずりをすると、身体を捻り回転を加え、僕から見て右側の金髪の腹にえげつないほど強烈な掌底を喰らわせた。
「がッ――は!? うぁ……ッ」
右側はそのままデスクに落ち背中を強打した後、掌底を喰らった辺りを抑えながら蹲り呻いた。攻撃を喰らった衝撃でとれたらしく、その横には金髪のウィッグが転がっている。
「撹乱するためにシャッフルしてたのね。明紀君が居ないと思ってたけど、よく考えてみれば蜂ちゃんが蜘蛛ちゃんになってた時点で答えは出てたわね」
言いながら、姉さんは身体を半回転させる勢いを無駄なくつかったハイキックを左側――本物の蜂に喰らわせている。ほぼ同時に飛び掛かった明紀と蜂に各々攻撃をあてるのにかかった時間はほぼ一瞬。あまりの速さに、僕には姉さんが分身して二人になったように見えてしまった。……なんというか、強すぎる。
そのまま懐に踏み込んでいくのは危険と判断した らしく、蜘蛛ちゃんはいつの間にか姉さんとの距離をとっている。そう、それが正解だ。僕たちは、姉さんを捕まえるためにはトリッキーな手段に出るしかない。特に蜂と僕は、最悪攻撃を浴びせるだけで殺してしまうのだ。蜂は手が、僕は全身が凶器のようなものだから。トリッキーな手段に出るには、焦ってはいけない。常に冷静な思考でいなければ、呑まれてしまう。
しかし、一時間前に新たな情報(主に蜘蛛ちゃんの)を詰め込まれたお陰で、元々姉さんのことで一杯だった脳ミソはパンク寸前だ。僕の脳ミソにはそんなにキャパシティがある訳じゃない。だから、既に冷静でいるなんて不可能なわけで。初めから混乱してしまっているのだ。
「よ――い、しょっ!」
だから、こんなトンデモ行動を起こしても仕方ないとは思う。
僕は助走をつけてから、姉さんと僕の間にあるデスクを思い切りスライディングで蹴り飛ばした。するとどうだろうか、能力を解禁した足は地面とデスクを砂に変え派手に散らばらせていくではないか。砂を掛けるなんて小学生かよと言いたくなるようなチープな手段だが、意外と有効なのかもしれない――なんて特に考えた訳じゃないけれど。実際は、邪魔だからとりあえずデスクを壊そうと思っただけだ。ただ、そのあとで姉さんが驚いたような顔をして、動きを止め目の辺りをおさえたから有効だったと思ったのだ。
「ありがとうです、熊くん」
どうやらこれは蜘蛛ちゃんにとってファインプレーだったようで、蜘蛛ちゃんは走り込み跳ねるように姉さんに飛びかかっていた。さあ、次はどうだろうか、なんて見守りながら、僕は一時間前のことを思い出していた。




