06
見とれている場合ではない。なんとか我にかえった僕は、正常な思考を取り戻す。
姉さんが出ていった。逃げると言っていた。つまり、『兎さん』は消滅し、僕の唯一にして最愛の家族もいなくなるということ。痛みを与え続ける喪失感はそれを許さない。許したくない。そんなのは嫌だ、と駄々をこねるように。
姉さんが何処かに行ってしまうなんて、そんな寂しいことはごめんだ。ならば、見つけ出して捕まえるしかない。
たった今出ていってしまった姉さんだが、今急げばきっとまだ遠くには行ってしまわないはずだ。雪が降っているから車もあまりスピードを出せないだろうし、この時間では電車もバスもろくに動いていない。今がチャンスだ。
よし。と意気込むと、僕は家の一階の鍵を全て開けてから玄関に立った。
きっと、もうこの家に僕が来ることはないだろう。必要な荷物は全て廃ビにあるし、家具も好きなものを廃ビに揃えてある。この一年間、僕の帰る場所はこの家ではなく廃ビだったし、僕にとってはもう掃除人が家族のようなものだ。この家には全くと言っていいほど未練がない。
僕が家の鍵を開けて回ったのはせめてもの、両親に対する最後の優しさだ。姉さんが去り、僕も去れば、二人の惨状に気付く人は中々現れないだろう。最悪、誰にも知られずに長い時間をかけてゆっくりと消えていく。そんな最期も中々不憫で哀れなので、気休め程度の救済措置としてこうすることにしたのだ。僕も、姉さんも、警察なんかに連絡する気は更々無い。人様の家に不法侵入した憐れな不届きものの叫び声で発見に繋がればいいね、と僕は他人事のように思うのだった。
「……うっは」
玄関の扉を開けると僕は思わず笑っていた。
目の前に広がる白い世界。先程降り始めた筈だった雪は、どんどんその量を増して着実に地面に積み重なっていた。というか、大雪過ぎて最早吹雪になってしまっている。
フードを被り、数歩ほど吹雪の中へ踏み出してみる。すると、一分後には僕の足跡に一センチほどの雪が積もっていた。これは酷い。まるで、姉さんを遠くにいかせたくない僕の気持ちを空が代弁しているようだ。
しかし、大雪だからといってのんびりはしていられない。むしろその逆だ。とりあえず急いで廃ビに帰らなければならない。
一分で約一センチ積もるということは、時間が経てば経つほど雪が恐ろしく積み上がり、まともに歩けなくなるということだ。既に十五センチほど積もっていてやや歩きづらくなっている。急がなければ、廃ビの入り口が雪で塞がり中に入れないなんてことも起こりかねない。やっと家を一つに絞り込めたというのに、そんなアホなことはごめんだ。
それから僕が廃ビに到着したのは三十分ほどしてからのことだった。普段なら十分でつくというのに雪を甘く見すぎていた。
「寒い! 寒い寒い寒い寒い寒い! さぁぁぁぁむぅぅぅぅいぃぃぃぃ!!」
あまりの寒さに、僕は頭でもおかしくなったのかと思うほどバカみたいに叫びながら、廃ビの地下、居住スペースに転がり込む。比喩ではなく、本当に。どすんとかバタンとか大きめの音がしたような気がするけど、僕としては音なんかよりも全身の痛みの方が大事だった。転がった拍子に至るところをぶつけたらしく全身が痛い。痛いし寒い。余計に痛い。
「やけにテンションたけえな……帰ったんじゃなかったのか?」
文字通り床に転がった僕を冷めた目で見下ろしながら出迎えたのは蜂だった。出来ればそんな目で見下ろしてほしくないところなのだが、僕のテンションがどう考えても異常だったので反論の余地はなかった。こうして、蜂に冷たい目で見られることで若干冷静になれたような気もするし。
「家はなくなった」
「は?」
「だから僕はこれからずっとここに住み込むことにした」
僕はそれだけ言うと、何時までも床と仲良しこよししてないで立ち上がる。今は蜂よりも明紀と話がしたい。いや、どうせ蜂にも話をすることにはなるのだけれど、でも優先するならば明紀だ。
ソファーに明紀はいない。ということは、他に考えられる場所は……
「明紀!」
乱暴にドアを開くと、明紀はびくりと身体を反応させた。状況を理解できていないような顔を見る限り、僕が来ることは想定していなかったらしい。ここは僕の部屋なのに。
「な、なんだよお前。兎さんはどうなったんだ?」
「そのことで話がある。拒否せずに協力してくれ」
自分でもそれはないだろと思うほどの横暴な頼み方。どう考えても人にものを頼む態度ではないし、普通は誰だってこんな言い方をされたら断りたくなるだろう。
でも、今はその『普通』ではないし、僕の親友様である明紀はその『普通』におさまる器ではなかった。
「いいぜ」
話も聞かず、二つ返事で了承してくれる明紀に心のなかで深く感謝しながら、僕は家で起こったこと、会話した内容を明紀に話し始めるのだった。




