楔
子供たちと稽古を始めて、約一週間が経過した。
最初は少し警戒心を持っていた一同も、今ではすっかりサルターレ流の門下生。フィンを師範と仰ぎ、一つずつ着実に健康武術を学んでいる。
彼らのおかげで、青空道場としている広場にも変化があった。
まず不安定な足場を均等にならすため、土を運んでもらった。
それをアルフレドに用意してもらった道具で、平らな土地に整備した。
おかげで青空道場は、すっかり綺麗に整った。
食事の配給所としても利用していた場所なので、スラム街の人々からの評判も良い。そして子供たちの呼びかけで、お年寄りの一部も門下生に加わってくれたのだ。
まだまだ人数は少ないが、サルターレの輪は少しずつ広がっている。
父が行ったように、フィンの活動は紛れもなく実を結んでいた。
また、もう一つ大きな事柄がある。
フィンは手荷物の中に、タイタンにいた頃のポスターを持参していた。
『健康なる健康は、健康なる健康に宿る――今日から君も一緒に、サルターレ!』
中身はサルターレ流の募集で、全部で八種類。
簡単な動きを図解付きで乗せており、これをセントラルでコピーしてもらって、スラム街のあちこちに配って回った。
それどころか、セレーネが自主的にセントラルの街角に貼ってくれたのだ。
さすがにスラムほど反応は薄いらしいが、サバーブとセントラルの両方で活動することは意味がある。
スラムの治安向上に、セントラルの存在は必要不可欠だからだ。
もっとも、それについては、もうしばらく経過が必要になる。
だから今は、地道にスラムの掃除を続けながら、サルターレ流の普及活動に精を出している最中なのだが――
「――フォッフォ。よく来たの、お若いさんら」
地肌剥き出しの頭部と、顔面に真っ白な髭を蓄えた、まるで仙人のような老人だった。
そこは西区画にほど近い場所に構えた、朽ちかけの家屋。
フィンの住む長屋とは打って変わって、周辺からは生活臭が感じられない。
人気のない空き家ばかりが立ち並び、たまに道端で痩せこけた人間が寝転がる。他にも昼間から定職がないようにふらつく者や、誰彼構わず物乞いを行う者も見受けられた。
フィンとセレーネが、このようなところを訪れた理由。
それは子供たちのリーダー兼、フィンの一番弟子である少女の頼みだった。
「オレのじっちゃんだ。みんな、好々爺って呼んでるぜ」
好々爺の隣で、ちょこんと地べたに座る少女。
窪んだ大石を椅子代わりに、好々爺はゆったりと喋る。
「少しばかり、人より老婆心が強い年寄りじゃよ。アンナも幼い頃、道に捨てられていたのを拾っての。以前とは違い真面目に育てたつもりなんじゃが、スラムではその日暮らしが精一杯。年寄りの稼ぎなど微々たるもの。窃盗団などという馬鹿な行いも、止める権利すらなく。いやはや、なのにこんな娘に良くしてもらって、ワシぁ本当に感謝の念が絶えんよ」
「じっちゃん、長い! それとオレのことは、コーディって呼べって言ったろ!」
アンナ・コーディは大声を張り上げる。
どうやら彼女は、仲間たちの前で自分を強く見せたいがゆえに、男として扱って欲しい節があるようだ。
フィンとセレーネも、普段はアンナのことをコーディと呼んでいる。
「まあ、なんじゃ。アンナ、ワシはこのお二人と話をするから、外で遊んできなさい」
「えー、オレも居ちゃダメか?」
「大人同士の話じゃよ。ほれ、行った行った」
「ちぇっ、つまんねぇ」
アンナは唇を尖らせながら、ハッとしたようにフィンに居直る。
「あっ、そうだ! 兄貴、サルターレ流の動き、練習してて良いか?」
「ん? それは良いが……急に兄貴って……」
懐かしさを伴う響き。
つい三年前まで、兄さんと呼ばれるのが当たり前だった。だが、怪物――軌獣の襲来によって、父とともに命を落とした弟アーウェル。
予期せぬ懐古は、フィンの胸に小さな棘を刺した。
「いや、オレって一番弟子じゃん。他の奴らと同じ師範って呼ぶんじゃ、なんか特別感ねぇだろ? だから、兄貴って呼ばせてくれよ。そっちは姉貴な!」
「……まあ、好きにしてくれ」
「私が姉か? 不思議な気持ちになる呼ばれ方だ」
アンナは、はにかんで笑いながら、元気にボロ家を飛び出していく。
その無邪気な後ろ姿が、フィンはやけに愛おしく感じられた。
「ささ、座っておくれ」
好々爺は二人を藁の敷物に促す。
お言葉に甘えさせてもらい、フィンとセレーネは向かいに腰を落ち着けた。
早速セレーネが、好々爺に話しかける。
「ご老体のことは、おそらくマクスウェルから聞いたことがある。世話焼きを生き甲斐とした、このガイアードスラムの生き字引がいるとか」
「ほほう、英雄アルフレド殿に知ってもらえているとは光栄じゃわい」
「そんな貴方が私たちを呼びつけた理由を察するに、あまり明るい話題ではないのではありませんか?」
セレーネは不穏な気配を感じ取っていた。
好々爺はピクリと片眉を上げる。
「……思ったよりも鋭い娘さんじゃ。では単刀直入に言わせてもらうかの」
貫禄ある髭を弄りながら、好々爺は真っ直ぐにフィンを見やった。
「のう、お若いの。お前さん、このスラムで健康武術なんてもんを始めたそうじゃな」
「ええ、サルターレ流です。それがどうかしましたか?」
「悪いことは言わん。あ奴に――ケルベロスに目をつけられる前にやめておきなさい」
「危険は承知の上ですよ」
フィンが素っ気なく返すと、好々爺は深いため息をついた。
「お前さんはあ奴らの恐さを分かっておらぬ。ログフレアも迂闊に手を出せん地下組織。国家のお膝元にあり、その情報網はテラ王国政府とも繋がっている」
「それは本当ですか、ご老体。犯罪組織が、政府と?」
驚いた様子をみせるセレーネ。
好々爺は頷きながら、手近にあった杖を取った。
「テラ王国の建国についてはご存じかな。かつて、この土地には星印晶【テラ】を中心に、ルナの民とカロンの民がおった」
「はい。私は知っていますが」
「この前セレーネが言おうとしたやつか。俺は知りませんが、その話って必要あります?」
「そうじゃなあ。久々に語りたいが、長話をするとアンナに叱られてしまうからの。若者に合わせて掻い摘んでしまえば、二つの民は互いに生存競争を行ったんじゃよ」
野生の食物連鎖のような言い回しで、好々爺は敗者の末路を口にした。
「二つの民は、当初は手を取り合っておった。けれど頭首の違いから内乱が起き、戦に敗北したカロンの民は奴隷として扱われた。その大半は死に絶えたが、一部は隠れ里に移り住んだと言われておる。あるいは、スラム街の住民としてのう」
「それじゃ、お爺さん。ケルベロスの中に、そのカロンの民の子孫が?」
「然り。彼らの中には未だに、政府要人から公にできない依頼を請け負う者もおる。そういった筋から情報を集め、時に自分たちの不利益となる存在を闇に葬るのじゃ」
「なるほど。ですが、スラムの組織なんていつでも命のやり取りしてますけどね」
好々爺の心配をよそに、フィンは杞憂とばかりに受け流す。
しかし杖に体重をかけながら、好々爺は鋭く眼光を尖らせた。
「たしかお前さん、タイタンから来たと言ったのう」
「え? ええ。でも俺、そのことお爺さんに話しましたか?」
「あれだけ目立って活動しておれば、ワシの耳にも届くわい。無論、それはケルベロスにものう。スラムを掃除した男の息子の到来――それは言わば、シマ荒らし。スラムが正常化されれば、奴らは稼ぎ場を失う。これを許すはずもなかろう」
「俺の目的はスラムの治安向上です。恨みを買うのは仕方ないですよ」
「お前さん個人が狙われるだけならば、それこそワシも口出しせんわい」
淡泊な発言から一転、好々爺はフィンの心を揺さぶる事実を語る。
「三年前、タイタンは巨大な軌獣に襲われたらしいのう」
「それは、まあ……」
「原因は片印晶の違法取引と言われておったな。一週間前、お前さんらが闇市場の騒動を治めたときのような、ちょっとした不手際と」
「お爺さん。何が……言いたいんですか?」
ひやりと、背筋に寒気を感じながらフィンは核心に迫る。
「カロンの民の末裔が手引きしたと考えるとどうじゃ?」
「……あの事件は、人為的に引き起こされた、と」
フィンは最悪の想像を言葉にした。
考えたことがなかったわけではない。
父はタイタンのスラムを変革し、多くの者から賞賛された。
それと同時に、数多の恨みも背負う結果となった。
タイタンの二大勢力だったマフィアを和平によって鎮静化させ、小さな組織は次々と潰れていった。彼らの内に、復讐の芽が生じる可能性は決して否定できない。
「どうじゃろうな。真相は闇の中じゃが、仮にケルベロスがこの街で軌獣を解き放てば、再び荒廃したスラムが出来上がる。お前さんが必死に治安向上に努め、希望を積み上げた先に待ち受けるのが、深い絶望じゃとすれば……その行いに、意味は持てるのかのう?」
好々爺の台詞は、真に迫ってフィンの胸に楔を打ち込んだ。
いつの間にか、フィンの手の平はびっしょり濡れている。三年前、この腕に冷たい弟を抱いた感触が、否応なく蘇ってきた。
「フィン、大丈夫か?」
セレーネの気配りが耳に触れた。よほど酷い顔をしていたのだろうか。
「あ、ああ、平気だよ。少し、嫌なこと思い出して」
「私はその事件の詳細を知らないが、多くの犠牲者が出たと聞いている。君にとっては非常に衝撃的な出来事だったのだろう。その心中、察するに余りある」
「良いんだ、もう終わったことだよ。それに――」
フィンは一つ深呼吸をしてから、腹部に力を込めた。
「お爺さん、俺はサルターレ流の普及はやめませんよ」
「それが誰も望まぬ、お前さんのエゴイズムだとしても?」
「ノン・サルターレ。残念ながら俺がこの目で見た限り、この街は不健康です。父が来る前の、かつてのタイタンもそうでした。だけど人々が健康になれば変えられる。明日を生きる希望を持たない街に、未来なんてやってきません」
「アンナや子供たちが、危険に巻き込まれる可能性があってもかのう?」
最後の壁のように立ち塞ぐ倫理観。
フィンはそれを乗り越えるように、己が信念を示してみせた。
「スラムはセントラルの意思一つで、明日にも消える運命です。彼らが本気を出せば、住民の一掃なんて容易い。囚人のように捕らえられ、過酷な労働環境に放り込まれたなんて話、他国ではザラに聞きます。それがこのテラ王国で起こらない保証はありません」
「たしかに、のう」
「健康なる健康は、健康なる健康に宿る。全ての人が健やかに生きられる。そんな理想を目指すのがサルターレ流の理念。俺はこれを、間違いだなんて思いませんよ」
正面きってぶつけた意見に、迷いなどなかった。
たしかに取っ掛かりは、セレーネの課題だったかもしれない。しかしこの街で一週間過ごしてみて、その結論に至ったのはフィン自身であった。
「……ふむ。近年、稀に見る芯を持った男じゃ。しかしそれゆえに、あ奴に……いや」
好々爺は、これまでの発言を撤回するように、柔和な態度を示し始めた。
「すまんのう。お前さんらの心構えを推し量りたかったんじゃ。それだけしっかりと物事の本質を捉えておれば、ワシの戯言に中身がないことを理解できていよう」
「それは光栄です。ただ、お爺さんの心配も分かりますし、いっそこうしませんか?」
フィンは好々爺に向けて、一つのシンプルな提案を行った。
「ケルベロスのアジトって分かりますか? 今から、話をつけに行ってきますよ」
「ほうほう、これからケルベロスに会いに行くつも――ふぉがっ!」
驚きのあまり、大口を開く好々爺。活舌よく喋るだけあって、高齢にも関わらず何本も歯が残されていた。
「フィン。君は、自分の言っていることの意味を理解しているのか?」
苦虫を噛み潰したような物言いのセレーネ。
その冷めた無表情には、一過言以上を秘めた圧が含まれていた。




