一番弟子
フィンはスラムの広場に辿り着いた。
昨日見かけた炊き出しはいない。彼らは昼と夕方に活動し、設営されたテントだけが置いてある。備品の盗用は心配ないとのことだ。
曲がりなりにも、ログフレアはテラ王国の主力部隊。各地に支部があり、フィンの暮らしていたタイタンにもそれはあった。
サバーブの住民も、ログフレアに手を出すほど愚かではない。
フィンはこの誰もいない広場を、青空道場として仮拠点に定める。
舗装されていない土のグラウンドは、ところどころデコボコしている。
お年寄りなどの人を集めるには、もう少し整備が必要だ。
本格的な運用はこれから考えれば良い。手荷物をテントに置かせてもらい、フィンは殺風景な空間で準備運動を始めた。
「――おはよう、フィン」
フィンが基本的な柔軟をしていたとき、セレーネがやって来る。
今日も凛々しい士官学校の制服姿だ。
「ああ、おはようセレーネ。来てくれて嬉しいけど、学校の時間は大丈夫か?」
「問題ない。昨日も今日も休校日だ」
そう言いながら、セレーネはざっと周辺を一瞥する。
「ところで、あれは何だ?」
「見学」
足の健を伸ばしつつ、フィンはさらりと流す。
広場の片隅では、子供たちが食い入るようにフィンを見ていた。
その様子に、セレーネがあることを勘ぐる。
「もしやケルベロスの差し金か?」
「違うと思うけどな」
「どうしてそう言い切れる」
「勘」
「クレセント。君の思想は危ういぞ」
セレーネは物々しい態度ながら、フィンを心配してくれる。
「たとえそうでも、今の俺にはどうしようもないさ。それよりセレーネ、付き合ってくれるんだろ? 柔軟体操はよくやっとけよ」
「……君が気にしないのなら、私も余分な口出しはしないが」
不満そうにしつつも、セレーネは帯剣を外してから屈伸運動を始めた。
二人で一通りのウォーミングアップをしたあと、ようやく本題に入っていく。
フィンはまず、サルターレ流の基礎中の基礎からセレーネに伝えた。
「サルターレ流は前後左右斜めの八方向に動く、歩行術が主体なんだ。腕や足を動かしながら、いずれかの方向に移動する。別にそんな難しい動作は必要なくてね」
「例えばどのようなものがある?」
「そうだな。初歩としては、やっぱり前に動く――」
フィンはその場から、一歩だけ前方に歩いた。
「〝犬の動き〟。動いたら定位置に戻る。これだけだよ」
「犬? いやそれより、歩いて戻る……それだけか?」
一瞬、セレーネが呆けたように訊き返す。
「ああ、それだけ。だから言ったろ? お年寄りでもできる健康武術だって」
「そうか……いや、そうだな。すまない、私が少し期待しすぎていたようだ」
武術の名を関する以上、もう少し洗練された動作をセレーネは予想していたようだ。
しかし激しい動きは、誰にでもできるものではない。
一部の人間にしか行えないものを、健康武術とは呼べなかった。
「でもたしかに、セレーネには味気ないかもな。それなら〝猪の動き〟とかどう?」
セレーネ向けに、フィンは若干高度な動きを披露してみる。
「じゃあ、セレーネ。ここに立っててくれる?」
「それは構わないが」
セレーナは青空道場の中心で、ぽつんと佇む。
対するフィンは、広場の端っこまで移動してセレーネを前方に捉えた。
「よし、行くよ」
フィンは合図を送る。
直後、フィンは右足と左足を交互に繰り出した。
スキップだった。
跳ねるように、デコボコの道を渡ってセレーネの眼前に迫る。
それを受けたセレーネは、無表情を崩すように微かに頬を引き攣らせていた。
「……歩くよりは難しいのだろうな」
セレーネはどっと疲れが出たように、右手で顔を覆った。
「んー。今度は少し早くしてみるか?」
と、フィンの声が広場の端から届けられる。
「いや、もういい。サルターレ流というものについては、だいたい理解し――」
次の瞬間、セレーネはハッと面を上げた。
おかしい。
今、フィンはスキップしてセレーネに肉薄してきたはずだ。
顔と顔を突き合わせる、すぐ傍にいたのである。
それなのに、どうしてもうあんな遠い距離にいるのだろうか。走ったような足音すらさせずに、フィンはあり得ない速度で定位置に着いていた。
「じゃ、もう一回」
フィンが合図した、刹那だった。
踏み出された一歩。
右足で大地を蹴り、左足で送り出された大きな一歩。
スキップならば、すぐに足が地面に触れるはずが、非情に長い距離を滞空している。そして途中で地に着いた瞬間、再び同様の動作が高速で行われた。
もはやフィンのそれは、スキップではなくスライド。
身体ごとセレーネまでの直線距離を、瞬きにも満たない速度で詰めた。
「っし、到着……って、あれ。セレーネ、変な顔してどうした?」
セレーネは自身がどんな表情をしていたのか、気にも留めていなかった。
ただ一点。曇りのない眼差しで、フィンという存在を意識する。
「今のも、サルターレ流なのか?」
「え? ああ。サルターレ流の免許皆伝。八点超駆っていう歩行術だよ」
「超駆? もしや、君は〝超因子〟を利用しているのか?」
「えっと、何だって? 俺は別に、何も使ってないけど」
身振り手振りで、フィンは身体に何も仕込んでいないことを証明する。
するとセレーネは一人納得を示した。
「それもそうか……刻印姫が力を貸さなければ、超因子は生まれない。だとすると、彼の動きは自らの身体能力のみで……ふふ、面白い男だ」
そのとき、セレーネは初めてフィンの前で笑って見せた。
不意打ちを食らったように、自分の胸が高鳴るのをフィンは意識する。
「へ、へえ。セレーネも笑うんだな」
「おかしなことを言う。私は無感情ではないぞ」
「悪い。でも少し意外だったよ」
「それは……言われてみれば、人前で笑ったのは、たしかに久しぶりだな」
すでに微笑みは失われていたが、セレーネからは柔和な雰囲気が漂っていた。
フィンはそれが、とても稀有なものに感じられる。
「貴女は笑ってる方が良い。俺はいつもの無表情より、そっちのが好きだ」
「……軽薄な世辞なら不要だ」
「いやいや、俺は心からそう思ってる。なんたって、サルターレは笑顔の向こうにあるものだ。誰も笑えない世界に、サルターレはない。断言するよ」
「君のクレセントぶりは、やはり不思議だ」
セレーネは呆れてしまったのか、そっぽを向いてしまう。
しかし穏やかな空気だけは、継続してそこにあり続けた。
『なあ、今のどうやったんだっ!』
ときに、二人の一部始終を見ていた子供たちが駆け寄ってくる。
爛々と瞳を輝かせる様は、まさしく無邪気な童子のようだ。昨日、フィンに強盗を仕掛けたことなど忘れてしまったように、次々に言葉を投げかけてくる。
「あれ、おれたちにもできるのか!」
「もっといろんなの見せてくれよ!」
「教えて! あのすごいの、やってみたい!」
わーわーと、フィンとセレーネを取り囲む賑わい。
「おい、テメエら!」
それをピシャリと一喝したのは、帽子のリーダーだった。
一人だけ輪に加わらず、フィンたちと距離を置いていた。
帽子のつばを持ち、目深にさせながら地面を蹴り上げる。威嚇するような動作が、仲間たちを委縮させ、一人、また一人と顔を俯かせていき――
「一番弟子はオレだからな!」
『わぁーっ!』
にぱっ、と咲いた満面の笑顔。
素直になったリーダーを皮切りに、子供たちのタガは外れたようだ。
押し寄せる子供の波を受け止め、フィンは苦笑しながら迎え入れる。
「サルターレ流は誰でも歓迎だ。さっそく始めるぞ」
『おーっ!』
「……たった一日で、ずいぶんな人気者だな、君は」
そんな評価をするセレーネの横顔は、ほんの少しだけ哀愁を帯びていた。




