深奥にあるもの
静まり返った宵闇の途。
穴だらけの家屋が立ち並ぶ大通り。瓦礫が散乱した無法地帯に、浮浪者の姿はない。されど時折、肌を刺し貫く視線に晒された。
鼻息を荒くし、血走った眼が、そこかしこから覗くイメージが脳裏を過ぎる。
フィンは居心地の悪さとともに、ニューに付き従って西区画を進んだ。
東区画と違い、ここは闇に蠢く組織が暗躍する本物のスラム街。治安保全局ですら迂闊に手出しできない、アンダーグラウンドの住人が影を潜める場所だ。
夜道に一人歩きなどしようものなら、瞬く間に身ぐるみ剥がされて捨てられる。
フィンは傍にいるニューに安堵感を抱くが、はたと疑問も抱いた。
そもそも彼女は、どうしてこの街を平気でうろつけるのだろうか。ダスティンがケルベロスお抱えの商人で、ニュー自身は刻印姫だとしても、それだけが理由とは思えない。
平然と歩を進める彼女の後ろ姿が、妙に得体の知れないもののように感じられてきた。
「ここ」
ニューが立ち止まったのは平屋の廃屋だった。
周囲の景色に埋もれる、みすぼらしい一角。普段利用するスラム駅とは、別ルートを走る高架線が、大きな獣の足のように近くをそびえていた。
ニューは躊躇なく、今にも潰れそうな場所に足を踏み入れる。
フィンの手にするランプの明かりで、うっすらと灯る室内。
そこは殺風景な空き部屋だった。
ひび割れた天井には蜘蛛の巣が張り、砂埃にまみれた足元には、虫の死骸や何かの骨が散乱する。
到底、ケルベロスの本拠として、機能しているようには思えなかったが――
「入口」
ニューは足でその辺を蹴った。
驚くことに、一枚の床がひっくり返り、その下に続く階段が姿を現した。
「ここがケルベロスのアジトか」
「正確には、隠れ家の一つ。ここでアナタと直接話をする」
ニューは一足先に、階段を降りていく。
ぽっかりと開かれた漆黒の間口。フィンは生唾を飲み込み、冥府へと続く深淵への入り口に足を踏み入れた。
壁燭台に灯された階段を下りきった正面に、扉が一つだけあった。
フィンとニューはノックをしてから入室する。
その瞬間、一気に視界が開けて感じられた。
実際にはそこまで広い部屋ではなかったが、四隅の飾られたランプシェードの光が、その空間を映えらせる。
空気が白く靄のようにかかっているのは、甘いお香が焚かれていたからだ。
粘土で塗り固められた壁に、板張りの床。
小綺麗に整った室内には、奥に椅子が一つ設けられているだけだ。
こちらに背を向けて、男が座っている。
その人物は、二人の入室に気づくと、短く拍手しながらこちらを振り向いた。
「ようこそ、ケルベロスのアジトへ。フィン=サーニタス君」
「貴方は……ダスティン?」
椅子に腰かけていたのは、決して見紛うはずもない美青年の面をしている。
声も、服装も、間違いなくダスティンそのものだ。
ダスティンはケルベロスのアジトで待つとニューは語った。この場にいることは、何ら不自然ではない。
だが、彼一人しかいない事実は、異質そのものだった。
「俺は、ケルベロスに話をつけに来たんじゃ……」
「ケルベロスのボスに会いたかったんだよね? それはとても正しいよ。キミの見ている光景が、そのまま現実に反映されているんだからね」
呆気なく答える青年の弁は、恨めしいほどにフィンの理解を侵食する。
「でも、どうしてダスティンが。片印晶を、売ってるだけじゃなかったのか?」
「その答えはとても簡単さ。ケルベロスはボクが組織したんだ」
「……いつ、からだ? いつから……俺を騙してた?」
「ボクは誰も騙していない。真実は語らなかったけれど、キミと接していた時間は、いつだって本物だった。フィン君なら、すぐに理解してくれると信じているよ」
いつもの穏やかで、優しい口調で、包み込むようにダスティンは語りかけてくる。フィンの頭は、すでに許容を超えて混乱しかけていた。辛うじて理性が保てたのは、自分の使命を忘れていなかったからである。
「それなら、ダスティン。俺がここに来た理由は、もう分かってるんだろ?」
「やはりキミは聡明だね。押し潰されそうな心を気丈に保っている。でもね、ボクはキミの奥底に潜む、もう一つの願望に気づいているんだ」
「誤魔化すな。俺は貴方に、その活動をやめてもらいに来た」
「それはできない相談だと言ったら?」
「もう一度だけ言う。ケルベロスを解散してくれ」
「焦りは禁物だ。そう、かつてルナの民も、焦燥に駆られてカロンの民を排除した。自らの地位を奪われると、くだらない自尊心のために我々の先祖を迫害したのさ。なぜもう少し考えが及ばなかったのだろうね。実に馬鹿げた選択だよ」
「ダスティン……っ!」
雲のように掴みどころのない眼前の男に、フィンは感情をぶつける。
しかし声を荒げた瞬間。
「フィン=サーニタス」
首筋に迫る、白銀の煌めきに気づいた。
気配を殺し、短刀を抜いていたニューがこれを押し付けようとする。その間際、フィンは八点超駆によって、真横にスライドしながらこれを避けた。
「ニュー、どうして!」
「兄様に歯向かうな」
「ふふ、お見事。刻印姫の速度に、よく対応できたね。超因子の軌道は肉体に染みついている。ニューとの訓練は、しっかり糧になっていたようだ」
再び拍手を送りながら、ダスティンはニューを手招きする。
「おいで、ニュー。元々対人戦では、フィン君に攻撃は当てられないからね」
「ん、分かった。兄様」
「……軌獣でも呼ぶつもりか?」
ダスティンの傍らにニューが移動し、両者に隙間が開ける。
フィンの脚力なら一歩で間合いを詰められるが、この場で荒事をしに来たわけではない。しかも相手は昔から知っている、半ばフィンにとって兄のような存在だ。
最悪の形で決着だけはしたくない。
フィンは一度深呼吸して、昂った気持ちを落ち着ける。
「なあダスティン。対話を望むなら答えてくれ」
「うん、友人の頼みなら喜んで」
「どうして、こんな犯罪組織なんて作った?」
「テラ王国を変えるためさ。キミも知っての通り、この国は根本から腐敗している。それは歴史を辿り、カロンの民を排斥した時点からすでに始まっていたんだよ」
「つまりダスティンたちは、カロンの民の子孫ってことか」
「ボクとニューだけじゃない。その際たる存在はキミだよ、フィン君」
「……俺が?」
一瞬、口から出まかせを言ったのかと本気で疑った。
されどダスティンの響きに変わらず敵意はなく、そんな嘘を吐く理由も存在しない。
「俺は元々、辺境の村に暮らしてた。それが土地開発で、たまたまスラムに移り住んだだけだ。そんなこと、ダスティンだって知ってるだろ?」
「その村が隠れ里だとすればどうかな。キミの先祖は、かつてこのテラ王国の――いいや、ガイアードに暮らす人々によって、迫害されて辺境に追いやられたんだよ」
「仮にそうだとして、俺はルナの民を恨んじゃいない。そんな大昔の話、知ったことか」
「本当にそうだろうか。キミが貧困に喘ぐきっかけとなったのが、ルナの民だとすれば、それは十分に復讐のきっかけになるとは思わないかな?」
「悪いが俺は興味ないし、今の時代の人間に復讐する理由にはならないだろ」
「キミになくても、ボクにはある」
そのとき、ダスティンは冷ややかなものを瞳に宿した。
得体の知れない恐怖が、フィンの背筋を走り抜ける。そこにあるのは、もはやこちらの知るダスティンではないのだろうか。
「……おっと、すまないね。ボクはフィン君と敵対したいわけじゃないんだよ」
すっと平静に返り、ダスティンは微笑んだ。
ダスティンはおもむろに、右手をフィンへ差し伸べる。
「こちらに着いてくれないか、フィン君。ボクはキミとは争いたくないんだよ」
「犯罪行為は、やめるのか?」
「残念だけれど、それは無理なんだよ。ボクたちにも生活があるからね。だけどこれだけは約束するよ。このスラムの人々には決して手荒な真似はしない。二週間ちょっとかな。キミが過ごした居場所を破壊はしないよ」
「誰も傷つけない、ってことか?」
フィンが真っ直ぐにダスティンを見やると、彼は頬を緩める。
その言葉に嘘はない。そんなことは、初めから分かっていた。ダスティンは終始フィンに対して、真摯な態度で向き合っている。
ケルベロスのボスだと、正体を明かす前から、ずっと。
「仮に仲間になったとして、俺は犯罪に手を貸す気はないぞ」
「キミには何も求めないよ。ボクたちの大切な友人でいてくれるだけで良い」
「……ニューも、そうなのか?」
「兄様が望むこと。ワタシはそれを優先する。でも、できればアナタとは戦いたくない」
本音を訴え続ける兄妹に、フィンの心は揺れかけていた。
ケルベロスが解体されることはない。しかしスラムに危害を加えないのなら、そこには安定が根づくだろう。
父親だってタイタンでマフィアと話し合いをしたが、結局解散にまでは漕ぎつけなかった。悪事を失くす、それだけで治安向上を築き上げた。
そう考えれば、フィンが仲間になった時点で理想は完成される。
フィンの目指すサルターレは、そう遠くない未来まで来ているのかもしれない。
「そういうことなら、ケルベロスに入っても良い」
「フィン君、分かってくれるかい」
「でも、その前にもう一つ聞かせてくれないか」
「キミの不安が解消できるのなら、何だって答えてあげるよ」
ダスティンは悠然と構えて、フィンの言葉を待った。
フィンはそこに、非常にシンプルな問いかけを行う。
「セントラルの人間はどうする気だ?」
「……」
ダスティンは初めて閉口した。
隣にいるニューも、どこか視線を逸らすように俯く。
フィンは逸る気持ちを抑えながら、自分なりに捉えた本質を彼らにぶつけた。
「なあ、ダスティン。カロンの民はテラ王国を恨んでいる。じゃあその復讐の手段として、軌獣を利用したとすればどうだ。三年前、タイタンで起きた事件のような」
「……」
「答えてくれよ、ダスティン。あのとき、軌獣を放ったのは――貴方なのか?」
確信のない質問。
否、決して信じたくない事実の確認。
それを、ダスティンが包み隠すことはなかった。
「事故だった、と言っても言い訳にしかならないね」
彼は認めた。あの悲劇を引き起こした張本人であることを。
フィンは、頭が真っ白になった。
そしてまさか、自分の中にこんな感情が残っているなんて思いもよらなかった。
刹那を伴い、踏み出された一歩。
フィンは瞬時にダスティンとの距離を詰めている。
とっさにニューが間に割って入るが、八点超駆の移動術は障害を無視した。
ニューを回り込み、繰り出した拳に込められるのは、おそらく怒り。
カロンの民の子孫がやろうとしていることと何ら変わらない、激情に任せた無意味な暴力だった。
これが自分の本性だったのなら、どうしようもない愚か者だ。
何がサルターレだろうか。
暴力で、人は健康にできない。
武力で人々を笑顔にできないから、父は健康武術家に転身したのに――
「ダスティンッ!」
勢い任せで振りかざした拳が、ダスティンの顔面を捉えようとしたとき。
「キミの深奥は、そうじゃないだろう?」
全てを見透かしたような、漆黒の眼差し。
ピタッ、と顔の直前で停止した拳に、ダスティンは優しく両手を包んだ。
「フィン君、キミは怒っているんじゃない。キミは――ただ家族に会いたいんだろう?」
「……俺、は」
途端に、フィンの膝がその場で崩れ落ちていく。
無気力になったわけではない。ダスティンに接近した瞬間、全身が脱力してしまった。
彼の足元に焚いてあったお香が、ふっと視界に入る。
「それは睡眠によく効くんだ。辛いことを全て忘れられるよ。ボクとニューは、すでに耐性ができてしまったけれど」
「ダス、ティン……」
「無為な生に苦しむキミを見ていられない。けれど、それでもボクはキミに生きていて欲しい。だからフィン君。少しの間、眠ると良いよ。きっとボクたちは、フィン君の生きる理由になってあげられると思うからね」
「……生きる……俺が……」
急激に重たくなる瞼と、薄れていく意識。
「おやすみ。ボクのたった一人の親愛なる友よ」
心地良い響きが、フィンを深淵のさらなる奥底へといざなうのだった。




