健康なる健康は、健康なる健康に宿る
セレーネの奢りで、フィンは屋台で肉を挟んだパンを買った。
ソースのかかった香ばしい匂いで食欲をそそる。
二人は繁華街を抜けたすぐ先の高台公園に向かった。
並木通りには、桃色の花弁をつけた桜が立ち並ぶ。その見事な色合いに足を止め、ひとときの風情を楽しむ者も多い名所だ。ここで何より人々の感性を揺さぶるのは、風に舞い飛び散る花びらの鮮やかさである。
山中に自生する桜は、芯が強く雨風に吹かれても花が落ちることはない。
しかし首都ガイア―ドでは、他所の地域から植樹した桜を観賞用としている。
ひとたび風が吹けば、桃色の花びらが美しい景色を生んだ。
二人はベンチに腰を落ち着かせて、昼食の時間を設けた。
午後からのサルターレ流の講習も、この場で行われるらしい。周囲には参加者のような、運動着を着た人物が多かった。
しかしパンを食べながら、フィンはふとした疑問を抱く。
セレーネの話では、志望者のほとんどはログフレアの退役者と聞いた。
それなのに辺りをふらつくのは、予想以上に若い男女が多い。中には杖をついたり、車椅子に乗っていたりと、スラムのお年寄りばかりの景色とは非常に対照的だった。
「三十……下手したら、二十代って感じだな。あれが退役者?」
「見慣れていなければ意外に映るだろう。刻印姫や穿士として戦い、身体を酷使した者たちの末路だ。歳を重ねて現役でいられる人間は滅多にいない」
「健康寿命が短いってことか? ところで、まともに動けないなら、あの人たちの生活はどうなってる? 命懸けて戦って、そのまま放置されてるわけでもないだろうけど」
「王国から補助金が出ているが、それも微々たるものだ。いかにセントラル住まいでも、家柄によって一生は決まる。彼らに贅沢な暮らしは許されず、日々の生きる気力もなく、緩やかに余生を過ごす。そして生活に困窮するようになれば、自ずとセントラルを去っていく」
「……そんなの、スラムと何が違うんだか」
サバーブの住人なら、一度は憧れるセントラルでの暮らし。
フィンもセントラルでは、常に華やかな生活が待っていると想像していた。それがこの有様だとすれば、スラムの人々が夢見る場所はどこにもないのだろうか。
「ノン・サルターレ、だったか? 私の目から見れば、セントラルの景色も、きっとそれなのだと思う」
「悪いが、それは分からないな。少なくとも俺たちサバーブの人間からすれば、雨漏りしない家に暮らせるのは贅沢の極みだ。毎日食べられるってだけで、天国に思う奴もいる」
「そうか……すまない。私が口にするには、あまりにも傲慢だったようだ」
「セレーネが謝ることじゃない。そもそも、セントラルが完璧なサルターレだったら、スラムなんてものがあるわけないんだ。セントラルとサバーブは表裏一体。どちらかだけが、幸せを掴むなんてことはない……って、父さんの受け売りだけどな」
フィンは頭を掻き、気を紛らわそうとしてみる。
と、セレーネは食事の手を止めた。
その横顔は、とても寂しげに見える。
「……スラムの治安向上の件だが、もう続けてくれなくて構わない」
「セレーネ? 貴女が冗談言うなんて珍しいな」
信じられない彼女の台詞に、フィンは思わずおどけを返す。けれどセレーネが洒落を好むタイプでないことは、この数週間の付き合いで理解していた。
「何か、あったのか?」
「親戚から縁談を持ちかけられた」
セレーネは感情を抑制するように、いつもの無表情で事実だけを述べた。
「結婚……のことだよな? えっ、その歳で?」
「貴族間では珍しくもない。加えて私は一人娘。現在ウォルメリア家は母が受け持っているが、親戚はその名を空けておきたくないようだ。そこで養子を迎え入れるため、私との婚姻を強いている」
「政略結婚、てやつか。それ、セレーネの母さんも乗り気なのか?」
「母は私に、自分の道を進んで欲しいと願っている。だが、いつまでも親戚たちを抑え込めるほどの地位はない」
「そっか。なんというか、大変なんだな、貴族の家柄も」
気の利いた言葉も浮かばず、フィンは安直な感想を述べるほかなかった。
セレーネの空気は沈んでいたが、フィンへの義理もあってさらなる詳細を明かす。
「彼らはログフレアの活動も快く思っていない。それも当然だ。母体が傷つけば、健康な子供が生めなくなるかもしれないからな。だから私の噂を利用し、学校側に圧力をかけた。この身が正常な内に、退学にしてもらうために」
「まじか……待てよ。じゃあ、オフェリアやウィンダムも、もしかしてそういった――」
「彼女たちは本当に素行不良なだけだ。裏はない」
「あっ、そう」
若干損した気分になりつつ、フィンは残りのパンを全て口に頬張り込んだ。
勢いをつけすぎて危うく喉に詰まりかけるが、フィンは気力でそれを流し込みながら喉を鳴らす。
「んっ、んー。まあ、セレーネの事情は分かった。だけど俺はこのまま続けるよ」
「なぜだ、フィン。君の崇高な志には共感する。しかし冷たいことを言えば、君はこのガイアードと何の関りもない。私が依頼を取り下げるのだから、それで済ませないか?」
「セレーネの心配は、俺がケルベロスと接触することだろ?」
「それは……そうだが」
「なに、初めて貴女と取引したときにも言ったはずだ。俺は限りないサルターレを、この街に届ける。それがサルターレ流の師範として、俺の成すべきことなんだ」
「その結果、命を落とす可能性があるとしてもか?」
「死ぬ気はないよ。俺は父さんとアーウェルの分まで生きないといけない。じゃないと、死んだ二人が浮かばれないからさ」
「アーウェル……とは?」
初めて聞く名だったのか、セレーネは疑問符を浮かべた。
そんな反応をされて、フィンも弟の話をしていなかったことを思い出す。
「ああ、俺の弟だよ」
「……そうか。たしか、医者を目指していたと聞いた覚えがあるが、すでに亡くなっていたのだな。心ばかりだが、哀悼の念を捧げさせてもらう」
「ありがとう、セレーネ。あいつは医者の少ないスラムのために、独学で医学を学んでた。そのためにたくさん本を読みながら、サルターレ流の訓練もやってたよ」
「君の弟は、よほど勤勉だったようだ。私も見習いたいものだ」
「……いや。そうじゃない」
フィンはベンチから立ち上がり、柵で仕切られた展望台まで歩んでいく。
そこはスラムを一望できる場所。
セレーネも急いでパンを食べ終えてから、フィンの隣に移動した。
高架線の下に広がる木造家屋群。その一つ一つに、このセントラルの人間と変わらない命があることを考えながら、フィンは果てしない青空に視線を上げた。
「俺はサルターレ流が嫌いだった。武術のくせに健康を謳うのも、それを押しつけがましく教えてくる父さんのことも苦手だった」
「フィンが? そのようには、到底思えないが」
セレーネからすれば、いつもサルターレを口にするフィンが真実だ。
しかし三年の月日は人を変える。以前、ダスティンが言っていたように、フィンがここまで来るには紆余曲折が存在した。
「父さんは俺に跡を継いで欲しかったようだが、俺はいつも稽古をさぼってた。日がな一日、川でひなたぼっこしながら、適当に釣り糸を垂らして……だから俺の代わりに、アーウェルは熱心に稽古をしてた。医者になりたいってのに、その時間を減らしてまでさ」
「……その考え方を変えたきっかけは?」
「三年前、軌獣の事件のとき、俺たちは父さんからスラムの避難誘導を任された。でもアーウェルは、一人で戦いに行った父さんの手伝いに向かったんだ。この、実戦では何の役にも立たない健康武術を伴って」
「では、そのとき二人は」
「俺が後を追ったとき、すでにアーウェルは死んでた。そして父さんも、サルターレ流の奥義を放って死んだ。相打ちだったよ」
「……非常に胸が痛い話だ」
セレーネは同情を寄せつつ、一つの疑問に突き当たる。
「しかし刻印姫の力を借りずに、軌獣を倒したというのか?」
「サルターレ流は、元々軌獣と戦うための技術らしい。その中でも奥義なんてものがあったらしいが、父さんは禁忌に指定してた。なんでも、使えば必ず死ぬからだとか」
「使うと、死ぬ? それではまるで……龍……」
思うところがあるように、セレーネは何か口ずさんでいた。
フィンはそれを聞き返す気も起きず、広い青空を見ながら両腕を天に伸ばした。
「んー、まあなんだ。セレーネにとっちゃくだらない話だろうが、要するにこんなどうしようもない俺でも腐らずにやれてる。だからさ、どれだけ先行きが見えなくても諦めるな。陰鬱になったら、それこそサルターレはやって来ないし、それに」
フィンは最も大事な心を、自分の言葉でセレーネに伝えた。
「本当に嫌なことからは逃げても良いんじゃないか? たとえセントラルに居場所がなくなったとしても、この世に人が暮らせない場所はそうない。誰かを助けることは、たとえサバーブに暮らしていたって可能だ。な?」
「……どこでも、人は救えるか」
「それに何より、セレーネが笑えないなんて、そんなの駄目だ。やっぱりさ、サルターレには笑顔が大事だから、貴女からそれが損なわれて欲しくないんだ」
「フィン……そうだな」
セレーネは面を上げて、フィンの隣に佇む。
そこに並ぶ姿は、決して未来を諦める少女のものではなかった。
「すまない。君には、いつも弱音ばかり吐いてしまう」
「ストレスを溜め込まないことも、サルターレにとって大事なことだ。滅入ったときは、いくらでも話し相手になるよ」
「たしかに、まだ二週間の猶予がある。私もできる限り、今の状況に抗ってみようと思う。それに気づかせてくれたのはフィン、君だ。感謝する」
「良いんだ。誰かに気づかされるのは、俺もつい最近、経験した。それに今は――」
フィンはゆったりと周囲を見渡す。
そこには、続々と二人の周りに集まって来る、サルターレ流の志願者たち。
セレーネの存在が目立ったのか、その横にいたフィンの正体にも彼らは気づいた様子だ。
「もしかして、貴方がサルターレ流の師範ですか?」
「フィン=サーニタスさん。スラムを掃除した男の息子って、ほんと?」
「サルターレ流やり始めてから、痛かった身体がよくなってきたんだ。すごい効果だ」
「……あの、良いですか?」
口々にフィンを質問攻めにする中、フィンはか細い声の方を向いた。
少し視線を下げると、そこには車椅子に乗った女性がいる。二十代前半辺りだが、すでに脚はその機能の大半を失っているようだった。
おそらく刻印姫として、辛い任務に当たっていたのだろう。
「私……こんな身体でも、できますか? ウォルメリアさんが街で呼びかけていたから、勢い余って参加してしまったんですが……」
申し訳なさそうに目を伏せる女性。
それに対し、フィンは地面に跪きながら力強い眼差しをぶつけた。
「大丈夫ですよ。サルターレ流は、いついかなるときも貴女がたの傍にあります。たとえその身がノン・サルターレでも、心までサルターレを忘れてはならない。健康なる健康は、健康なる健康に宿る。サルターレを求める精神を抱いてさえいれば、人は誰でもサルターレの道が開けますから」
「は、はいっ! 意味はよく分かりませんが、よろしくお願いします!」
「相変わらず、君の言動は不思議でクレセントだが……私も、嫌いではないようだ」
セレーネが呆れながらも、そこにもう陰鬱は宿していなかった。
定時には少し早いが、フィンはこの場でサルターレ流を広めていく。そこには退役者たちから失われかけていた、ささやかな笑顔があるのだった。




