闇に舞い降りた月
広大な平野に、亀裂の如く東西南北から紡がれた線路の中心。
城郭都市ガイア―ドは、蒸気列車によって各方面へと繋がっている。
そして王都をぐるりと取り囲んで形成されるサバーブの頭上を、セントラルに続く高架線が走っていた。
サバーブにも停車駅はあるが、セントラルパスがなければ乗車はできない。高価なチケットを手に入れた者のみ、安住の地への来訪が約束される。
このようなシステムは、多くの街で導入されていた。
当然、フィンの育った貿易都市タイタンも同様に、光と影を体現するセントラルとサバーブ。
そこに明確な隔たりを設けるかの如く、人々の間には確固たる格差社会が形成されていたのである。
「――こっちか?」
しばらくスラムを彷徨ったフィンは、繁華街とおぼしき場所に辿り着いた。
遥か頭上を列車の走る、高架線の支柱に寄り添って設けられた市場。
ここがサバーブと言えど、生きるために食事や生活用品は必要だ。市場にはさまざまな露店が立ち並び、店主たちが声を張り上げて客寄せや交渉を行っている。
彼らのように真面目に働く者もサバーブには多い。
闇取引も公然と行われているが、互いの店に迷惑をかけないのなら全て黙認だ。
乱れた秩序の中にも暗黙のルールは存在する。
とりわけ、サバーブでの窃盗は私刑もとい死刑に匹敵する重罪。
元締めの下に連れて行かれ、その後のことは誰も知らない。
唯一例外なのは、よそ者に対する扱いである。
あからさまな旅人は、この無法地帯では誰も守ってくれない。
少なくとも、このブラックマーケットを一歩出れば、そこは問答無用の治外法権。
先ほどの幼い窃盗団など生ぬるい暴虐が、そこかしこで待ち受けるだろう。
「――うわぁあああっ!」
フィンが闇市に入ってから、ものの僅かで事件は起きた。
波立つ人垣の向こう側で、ひときわ大きな光の柱が出現する。
人為の作用しない極光は、美しくも禍々しさを放っていた。その場に出くわした者たちの注目を一挙にかっさらう。
収束する輝きからは、幾何学的な無数の細い線状が形成されていた。編み物よりも細かな糸で縫い合わせていくかの如き、おぼろげな光の輪郭。
これが次第に輝きを褪せて、灰色へと着色されていく。
肉づけと言い換えても良い。
細長い体躯を持つ、とぐろを巻いていく生物。成人男性すら一飲みにできるほどの、巨大なスネークがそこに生まれたのだ。
恐ろしき怪物の出現により、人々は一斉に逃げ惑う。
「〝片印晶〟が暴走したぞ!」
「〝軌獣〟だ! 蛇の軌獣が出やがった!」
「この馬鹿野郎! てめえの商品ぐらい、ちゃんと管理しろや!」
口々に喚きながら、阿鼻叫喚の図が生まれる。
商人は店の品を抱えるだけ抱え、客はパニックを引き起こし揉みくちゃにされた。転んだ相手を思いきり踏みつけ、そこで躓けばさらに折り重なる群衆。
誰も他人のことなど考える暇もなく、この場の退散に命懸けだった。
「く、来るなーっ!」
蛇に睨まれ悲鳴を上げるのは、この惨事を引き起こした店主の男だった。
セントラルでは禁止指定されている、宝石のように鮮やかな流星の破片・片印晶。
宇宙には、あらゆる事象を記録する彗星――〝虚空廻印晶〟が巡っている。
そこには宇宙創世からの記憶が刻まれており、無機物有機物問わずこの世のあらゆる情報が含まれていた。
星を剥がれて、隕石として地上に落下したこれらには、自己を保存する防衛システムが備わっている。
害意の所在を認めれば、たちまち付近の生物を排除しようとするのだ。
そしてその正体こそ、さまざまな地上外生命体を模した軌獣。
人類にとって脅威と成り得る、最悪の化け物だった。
「石に戻れ! 戻れェ! 戻れよォ!」
必死に懇願を叫ぶが、軌獣と化した片印晶に道理は通じない。
こうなってしまっては、軌獣を倒して石に戻す以外、解決方法はなかった。
軌獣に一定以上の傷を与えれば、片印晶の本体もひび割れて軌獣は消える。一度倒してしまえば、その片印晶は一年ほどの期間、軌獣を呼び出すことができない。
本来、仕入れられるのはそうした処理済みの品だが、稀に未処理が混ざっている。
法を破り、利益を求めた結果がこの現状であることは、笑い話にもならなかった。
「やめろーッ!」
大口を開けた大蛇が、店主を飲み込まんと頭上から降る。
腰を抜かせた店主にこれを回避する術はなかった。
「ノン・サルターレ!」
そのとき、大通りに巻き上がる土煙。
猛ダッシュの末、フィンは大蛇の動体に果敢な体当たりをかました。
衝突の勢いで僅かに吹き飛ばされる蛇の巨体。フィンが店主を後ろに庇うと同時に、相手はすかさず態勢を立て直してくる。
「……どいつもこいつも、健康的じゃないな」
フィンは嘆息交じりに、背後の店主に呼びかける。
「さっさと逃げなよ。まだ生きてる内に」
「あ、あぁ……いやでも、他の商品が……」
「なるほど、責任取りたいのか。じゃあ俺が突き出してやろう」
「逃げます! 逃げさせていただきます!」
闇商人は四つん這いで、情けなく逃走する。
外敵駆除の邪魔をされた軌獣は、赤色の瞳に収まる黒い縦筋の瞳孔を細める。先割れの舌をチロチロ動かし、新たな削除対象であるフィンを射すくめた。
フィンは周囲の避難状況を確認しながら、やれやれと首を振る。
「誰も彼も不健康この上なし。さっさと逃げてもらわないと、俺が本気で――」
小言を募ろうとした矢先、大蛇が脈動した。
今までフィンが立っていた地点が、地面ごと丸呑みにされている。
瞬きをする間もない速度だった。
元来、蛇は全身が筋肉と呼ばれるほどのフィジカルお化け。攻撃を認識してから回避することなど不可能だ。
それゆえに、遠巻きにこれを傍観していた人間の反応は遅れて生じる。
「く、食われたぞ! 誰か食われたーっ!」
野次馬の視界には、フィンが捕食された瞬間の残像が見えていた。
フィンの死を疑う余地すらなかった。
けれど、それは――
「危っぶね。このままじゃ俺が本気で殺されるから、早く避難してくれないかな」
フィンは無事だった。
大蛇のすぐ脇に、フィンは何食わぬ顔で立っている。
軌獣が食らいついたのは、まさしくフィンの残像だった。
汝、健康なれ――その意を宿す〝サルターレ流〟は、フィンの父が名付けた。
サーニタスの家系は、武術家として代々受け継がれている。フィンもその例に漏れず、今は亡き父から引き継いだ、サルターレ流の師範の肩書を持っていた。
そして、サルターレ流武術の極意――『八点超駆』。
簡潔に言えば、前後左右斜め、あらゆる方向に一歩で跳躍する移動術だ。
ただの一歩ではなく、刹那の一歩。
例えばその飛距離は、平均台の端から端を一瞬でスライド可能な脚力を有する。
基点から、あらゆる方向に対応させた八点超駆は移動術の極致。
その瞬発力は、たとえ筋肉の怪物だろうと到底追いつける速度ではない。幼い窃盗団をいなしたり、店主の男を助けたりできたのも、ひとえにこの武術のおかげだった。
だがこれほどの技術が身に着くサルターレ流にも、一つ弱点がある。
「おっ、っと、っと! そう暴れるなって!」
フィンは連続で齧りつく、大蛇の強襲を掻い潜る。
右へ左へ、後ろへ、斜めへ。決して敵の攻撃が当たることはないが、フィンは一向に反撃しなかった。
否、サルターレ流に攻撃の手段はない。
父の代でサーニタス一族の武術は変革した。
かつては、他者を傷つけるための技術が受け継がれていたという。
しかし父は、人々を健康にするための武道として新しく生まれ変わらせた。
それはいわゆる、健康武術。
サルターレ流は実戦において何の役にも立たず、安心安全お年寄りでもできる武術がモットーだった。
フィンが回避を続ける中、軌獣もさすがに事態を呑み込む。
このままフィンに攻撃を続けても意味がない。ならば他に害を成しそうな生物に攻撃を仕掛けようとするのは自然の反応。
付近では、まだ取り残された客が数人固まって、テントの隅に蹲っていた。
軌獣はそれに目をつけ、長い体躯を方向転換させる。
それは人々の避難を待とうとしたフィンの誤算だった。
大蛇は鋭利な牙を見せつけながら、胴体で露店のテントを払い退ける。その下で密集する人間の塊に、鉄槌の如き鎌首を振り下ろさんとした。
「く……っ!」
フィンはとっさに、逃げ遅れた者たちの前に立ちはだかる。
その行動に、軌獣は何の躊躇もなかった。
軌獣の役目は外敵の排除。
敵の善し悪しなど考慮せず、全て等しく葬らんとする。
圧倒的な死を目前にして――
「何か……来る」
フィンは遠く、大気の揺れを感じていた。
市場の根幹をなす支柱が振動し、頭上を走り去る車両。高架下の騒音は、一切の音を掻き消すように、鼓膜を激しく打ち鳴らした。
その中で、フィンはふとして二つの影に気づく。
正午を迎える、最も日の高く昇るとき。
遥か真上から降り注ぐ陽光は直下に影を落とす。
ならば、フィンたちを食らわんとする蛇に追随する、姿なきもう一つの影は――
「――クレセント」
死を覚悟したフィンの耳に、はたと届けられる静かな声音。
次の瞬間。
大蛇の首が、飛んでいた。
首と胴体の別れた軌獣は、双方とも光へと還っていく。
からん、と地面に転がり落ちたのは、結晶化した片印晶だった。
一閃された大蛇と入れ替わるように、眼前に着地する者がある。
視界いっぱいにそよぐ、深い水を思わせるブルー。蒼く洗練された繊細な髪が、ポニーテールに結ばれてはさりと背中を流れる。
こちらに向けられる双眸は凛々しい碧眼。
端正に彩られる色白の目鼻立ちは、冷たさと力強さが同居しているようだ。
しなやかな身体を包み込む、黄色を基調とした制服スカート。それはどこか、全体的な雰囲気と相まって、水面に浮かぶ月をイメージさせられた。
「貴方は……?」
フィンはその容姿に目を奪われながら、ぼんやりと訊ねていた。
そこに佇む青髪の少女は、右手に握っていた弧月型の長剣を腰の鞘に帯刀する。
「セレーネ=フォン=ウォルメリア」
少女は端的に名を告げ――
「君が私の欲する、スラムを掃除した男か」
互いの視線は、交差した。




