70
静かな広場。
噴水の水音だけが、やけに澄んで響いていた。
ビアンカはひとり、馬を進めていた。
王都の外れ――森へ。
胸の奥で、何かがくすぶっている。
笑いに似ている。けれど、喉まででかかるそれをこらえる。
声を上げてしまえばきっと溢れてしまう。
あの家を目指す。
戻らない妖精のような恋人を待ち続ける、愚かな男の住む、あの家。
「……あなたの王子様を、奪ってあげる」
吐き捨てるように言った。
馬は速度を上げ、森へと入った。
―――
ビアンカには、名前がいくつもある。
どれも本当で、どれも違う。
最初の世界で、彼女は何も知らなかった。
魔力も、聖女も、利用されるということも。
ただ、優しくされた。
だから、信じた。
その結果が、滅びだった。
人は壊れた。
笑い、泣き、縋り、やがて同じ顔になった。
自分を見る目が、全部同じになる。
――欲しい
――もっと
――そばにいろ
それが、どれほど気味の悪いものか。
幼い彼女でも、分かってしまった。
だから、二度目からは距離を取った。
名前を変えた。聖女を演じるのだと自分に言い聞かせた。
沢山わがままを言って、意地悪をして。
近づかせないようにした。
けれど、意味はなかった。
結果はいつも同じだ。
国は傾き、人は狂い、
最後には――自分が殺される。
召喚の繰り返し。
何度も、何度も。
その中で、ただ一つだけ。
なかったものがある。
壊れない人間。
自分のそばにいて、正気のままの存在。
――それが、ノクスだった。
―――
森の途中、ビアンカは異変に気づいた。
二頭の馬の近くに、騎士が倒れていた。
ビアンカは恐る恐る近づいて、馬から降りた。
彼はフリードリヒに、いつも付いている近衛の騎士だ。
「大丈夫?」
騎士のそばにしゃがんで軽く揺すってやると、騎士はくぐもった声で唸り、目を覚ました。
「うぅ、」
「こんな所でお昼寝?」
ビアンカが声をかけると、騎士は驚いて飛び起きた。
「ビ、ビアンカ様!?いえ!私は陛下を…」
「陛下を?」
「供もなく出立なさって……方角からスヴァルトハイム公の別邸かと……ですが」
言いかけて、騎士は顔を歪めた。
「……突然、魔力が……」
「魔力?」
「使っていないのです。なのに、根こそぎ奪われたように……」
息を整えながらも、騎士は不思議そうに首を振る。
「ですが……こうして立てる。貴女様のおかげでしょう。感謝いたします」
ビアンカは答えなかった。
彼の様子に違和感があった。
――酩酊していない。
あの白い魔力に触れた人間特有の、甘い崩れがない。
「ビアンカ様はどちらへ?」
「私もそうよ」
「ではご案内致します」
騎士はビアンカの乗った馬の手綱を引いて歩いた。
森が開ける。
そこに小さな家が見えた。
ビアンカは、すぐに異変に気づいた。
馬の歩みが、わずかに鈍る。
家の前。
人が倒れている。
一人は、うつ伏せに倒れていた。
「陛下!」
騎士が血相を変えて駆け寄る。
見慣れた金髪が土に汚れている。
もう一人。
この国には珍しい、黒髪。
仰向けに倒れたまま、動かない。
服が真っ赤だ。
彼の周りだけ、土が黒く濡れている。
――多すぎる。
血が、こんなに。
「……ノクス?」
血溜まりの中で、ノクスが僅かに動いた。
ビアンカは馬から降りて駆け寄った。
「ノクス!」
血に塗れるのも気にせず膝を着き、ノクスの顔に手を添える。
彼の黒い瞳は虚ろで、今にも光が消えてしまいそうだ。
「ダメよ!死んではダメ!」
ノクスの胸は不自然に凹んでいる。骨だろうか、白いものが飛び出していて、そこから血が溢れていた。
ビアンカは羽織っていたケープを脱いで傷口に当てた。
「フリッツ!」
ビアンカは叫んだ。
彼が持っているブレスレット。
「嘆きの沼」で、ブレスレットの魔法陣が瀕死のフリードリヒを助けたように、ノクスを助ける。
「フリッツ!起きて!」
ノクスの傷口を押さえながら、ビアンカはフリードリヒの方を振り返った。
目を覚まさないフリードリヒの頭を、騎士が布で押さえている。
その傷が、ブレスレットがないことをビアンカに教えた。
ビアンカは震えた。
ケープはもう血で真っ赤に染まっている。ビアンカの手も、スカートの裾も。
ノクスの顔は青白く、その瞳はもう何も見ていない。
「ノクス。だめよ!連れて行かれるわよ!」
ノクスの肩を揺するビアンカ。その目には涙が溜まっていた。
くっと、ノクスの指が、ほんの少しだけ握り返した。
「ノクス」
ビアンカはノクスの手を自分の頬に当てた。生きているのを、確かめるみたいに。
ビアンカはノクスを見た。
黒い瞳が、光をなくす。その瞬間を。
「ぁ」
ビアンカは目を見開いた。
ビアンカの手の中の、ノクスの手がだらりと力をなくした。
「ああ、」
ビアンカは、思わず目を背けた。
切れる程唇を噛み締め、しかしノクスに時間が無いことを知って彼に向き直った。
ビアンカはノクスに顔を近づけ、震える唇でまぶたに口付けした。
「沢山いじわるしてごめんね。次は優しくするわ。あなたと私は、きっとまた会えるから」
囁いて、愛おしそうに額を撫でた。
その瞬間。
足元が、淡く光った。
その眩さにフリードリヒが目を覚ました。
騎士が声をあげる。
「なんだ!魔法陣!?」
ビアンカの目の色が変わる。
何度も、見た光。
こうなると分かっていたのに。
「や、嫌…」
息が浅くなる。
覚悟なんて出来てない。
やめて。
やめて。
「ダメよ!」
ノクスを抱き締める。
「私のものよ!」
金切り声をあげる。
腕に力を入れる。
「連れていくなら、私も――」
一緒に連れて行って。
ビアンカの声を待たず、ふっと、腕の中が軽くなった。
抵抗もなく。
音もなく。
すり抜けるように。
ノクスは消えた。
「きゃっ」
支えを失って地面に倒れた。
抱き締めていたはずの腕の中は、空だった。
光も、もうない。
血も。
何も。
最初から、そこに何もなかったみたいに。
「……あ」
膝が崩れる。
地面に手をつく。
土が、乾いている。
さっきまで濡れていたはずなのに。
風がビアンカの頬を撫でた。
「……ノクス。あぁ、」
声が、どこか遠い。
ビアンカは理解している。
いつもそうだったから。
召喚されるのは死んだ時。
分かっていた。
それでも。
「……助けて」
額を地面に押しつける。
爪が土を掻く。
彼がいればと思ったのに。
希望が見えていたのに。
また。
国が潰れてしまう。
私も殺されてしまう。
「……誰か助けて」
答えるものは、いない。
「ビアンカ…」
ビアンカの肩に手が触れた。彼女は振り返った。涙に滲んだ先に、フリードリヒがいた。
「フリードリヒ」
ビアンカは思わず彼の胸にすがった。
「ビアンカ、どういうことだ。ファルネは、どうなった」
「召喚よ。あなたもしたでしょ」
フリードリヒはビアンカを抱きとめながら驚いていた。
「あの、瀕死のファルネを、召喚?」
「私はまた一人だわ」
掠れた声で独り言のように呟いた。
彼の胸に縋るビアンカの手に力がこもる。
「うっ」
フリードリヒはうめいた。背中が軋む。
「フリードリヒ?」
フリードリヒは思わずビアンカに寄りかかる。
彼の怪我も軽くなかった。
「一体、何が……?」
ビアンカはフリードリヒの顔を覗き込む。
額の傷は血が止まっているようだが、顔色は良くない。
「魔物が出たのだ。ファルネを狙っているようだったが。あの男、魔物を取り込んだ。私からも魔力を奪った」
「魔物を取り込む?」
まさか。ビアンカは顔を歪ませた。
ノクスが?
「私は魔力がなくなり気絶した。ビアンカが来てくれて助かった」
フリードリヒはビアンカを見た。
ビアンカの、その溢れる魔力を。
「陛下、ヴァロ様が探しておられます。城にお戻りください」
騎士がフリードリヒの脇で跪いた。
側近のオスカー・ヴァロの名を出されるとフリードリヒは渋い顔をした。
「こんな有様ではオスカーに大目玉を食らう」
騎士に肩を借り、フリードリヒは立ち上がった。
「ビアンカ、立てるか」
フリードリヒが手を差し伸べる。
その瞳に、光がある。
濁りのない、まっすぐな光。
ビアンカはハッとした。
――壊れていない。
「どうして、」
正気でいられるの。
ビアンカの声は掠れて消えた。
「一度城に戻ろう」
暖かいものでも飲もう。
そんな事を言って、フリードリヒはビアンカに手を差し伸べた。
「……ええ」
ビアンカは涙を拭い、恐る恐るその手を取った。
ビアンカの手の冷たさに驚き、フリードリヒは彼女の顔を見た。
そして、わずかに眉を寄せた。
違和感。
触れているのに。
何も、起きない。
あの甘い酩酊も。
全能感も。
頭に霞がかかったような感覚も。
ただ、手が触れているだけ。
「……なにか?」
ビアンカの声。
「いや……」
言葉が続かない。
視線が、彼女をなぞる。
初めて見るように。
ただの、女だ。
魔力が溢れているだけの。
それだけの存在。
「……何でもない」
そう言って、手を引いた。
三人は馬に乗り、森を抜ける。
街に出た瞬間。
異様さが、目に入った。
倒れている人々。
動かない街。
魔力の、欠落。
フリードリヒは息を呑む。
ビアンカは、目を細めた。
世界が、壊れている。
ビアンカも、知らない形で。




