69
ノクスは動けなかった。
こんな黒くて悍ましい生き物、知らない。
森の光が、そこだけ歪んでいた。
晴れているのに、木漏れ日が濁る。影が沈む。
足元の土が、じわりと湿っていく。
細長い身体は、泥のような布とも影ともつかないものに包まれている。
黒い髪は逆立ち、黒い瞳は光を一切返さない。
生き物なのに、歪で。許されない存在のように感じた。
ずっと、小さく呻いている。
ただ、痛みだけで形を保っているみたいだった。
ぎし、と。
その巨体が、ぎくしゃくと折れ曲がる。
骨が軋むみたいに身を捩り、眉間に深く皺を寄せて、歯を鳴らす。
カチ、カチ、と。
乾いた音が、森の静寂に妙に響いた。
「……っ、ぁ……」
呻き声はかすれて、震えていて、ひどく弱々しい。
なのに。
近づいてくるだけで、息が詰まる。
存在そのものが重い。押し潰されそうだ。
ノクスの足は動かなかった。
視界の端で、フリードリヒを探る。
倒れている。動かない。
お前が出したくせに。
怒りと恐怖が、胸の奥でぐちゃぐちゃに混ざる。
その間に――
それは、もう目の前まで来ていた。
身体中からぶわりと冷や汗が出た。
ゆっくりと、顔が近づく。
ノクスの足元に、黒い泥が落ちる。
ぼたり。
ぼたり。
触れた土が、じわりと変色していく。腐るみたいに。
息が止まりそうになる。
見られている。
観察されている。
目が合っているのに、見られていないみたいな、不気味な感覚。
その真っ黒な瞳が、ふっとノクスから外れ、長く、息を吐く。
そして、小さく呟く。
「……ちいサい」
言葉だった。
ノクスの思考が、一瞬だけ動く。
会話――
そう思った瞬間。
トン、と。
胸を、軽く押された。
「――ッ、ゴフッ!」
何かが、内側で潰れた。
空気が抜ける。呼吸ができない。
膝から崩れ落ちる。視界が歪む。
血が、口から溢れた。
何が起きたのか、分からない。
理解が追いつく前に、胸の奥から激痛が突き上げる。
「……っ、ぐ……!」
息を吸おうとしても、入ってこない。
肺が、潰れているみたいだ。
黒い魔力を吸い込む力が強まる。
その瞬間。
それが、しゃがんだ。
ぐい、と。
髪を掴まれ、無理やり顔を上げられる。
「――ッ、ぁ……!」
頭が引き裂かれるみたいに痛い。
垂れてきた泥が頬に触れる。
一瞬視界が滲む。
それでも、目を開けた。
顔は綺麗なままだ。
確かに顔に付いたはずなのに。
目の前に、笑顔があった。
歪んだ口。空洞みたいな笑み。
真っ黒な瞳。
「……おおキく、なル」
しゃがれた声。
ぞわり、と背筋が凍る。
「離せ……っ!」
腕を掴む。
滑る。泥で力が入らない。
それでも、必死に掴んで蹴り上げた。
「――ッ!」
お互いの体がぐらりと揺れる。
手が離れる。
ノクスの身体が転がり、地面に叩きつけられる。
「ぐっ、グフッ!」
咳き込みながら血を吐く。
胸が、へこんでいる。呼吸がまともにできない。
「もっト、おおキクなっテ」
ぼた、ぼた、と。
泥を垂らしながら、それが近づいてくる。
ノクスは地面を蹴って体を後ろに押した。
身体が言うことをきかない。それでも、少しでも距離を取ろうとする。
「さっきから……何の話だ……!」
ノクスは声を張る。口から血が飛び散った。
それは、ぴたりと止まった。
笑みが、消える。
「……まを、おくル」
「……は?」
思考が空回りする。
「まだ……ちイさい」
意味が分からない。
でも。
答えを間違えたら、死ぬ。
本能が叫んでいる。
それが、再び手を伸ばす。
ノクスは思わず目を閉じた。
次の瞬間。
鈍い衝突音。
それと、叫び声。
「ファルネ!」
名を呼ばれて、目を開ける。
フリードリヒだった。
氷の剣が、異形の肩口から腕を切り裂いた。右腕がぼとりと落ち、泥が飛び散った。
傷口からは氷が走る。
異形が金切り声をあげた。
「フリードリヒ……!」
「死にたいのか!」
フリードリヒはノクスを背にして異形を剣を構えた。
「なんだこいつは」
ノクスはフリードリヒを睨んだ。血が泡立って声が上手く出なかった。
叫び声を上げながら異形は、肩口の氷をガリガリと掻きむしる。その中から新しい手が生えた。
ぼろぼろとこぼれた氷が泥にまみれて、黒い欠片が舞う。
「逃げろ!」
フリードリヒが斬り込む。
異形が腕を出す。
ギィン!と硬い音と共に剣が弾かれる。
フリードリヒは突きを繰り出す。
異形の長い腕に阻まれる度、氷の欠片と泥が飛び散って、泥濘が出来る。
ノクスは、熱に浮かされたようにそれを見ていた。
胸を押さえながら、頭には異形の言葉がぐるぐる回る。
「……まを、おくる……」
呟く。
ちいさい。
おおきくなる。
さっき、自分は何をした。
呼吸が苦しい。血の味が濃い。
集中できない。
また、吸っている。
黒い魔力が、勝手に流れ込んでくる。
その瞬間。
異形が、ぐるりとこちらを見た。
「……おおキク、なっタ」
笑う。
「行かせるか!」
フリードリヒの渾身の剣が胸を貫く。体が揺れる。
だが、止まらない。振り上げる長い爪で、フリードリヒの額が切れた。
「まを、おくル」
魔を、送る。
ノクスは地面に崩れた。
「……あぁ」
ノクスは押さえ込みを、やめた。
瞬間。
世界が変わる。
黒い魔力が、奔流のように集まってくる。
森の影がざわめき、梢から鳥が落ちる。
大きな影法師が窓に張り付く。
空気が歪む。
見える。
家の中。壁に刻まれた魔法陣。
リーリエが何度も書き直した線。
それが、ほどけて、流れてくる。
吸い込む。
止まらない。
異形がフリードリヒを蹴り飛ばす。
木立に叩きつけられる音。
「ぐっ!」
フリードリヒはそのまま草の上に転がった。目の前が血に滲む。
異形が、ノクスに近づいてくる。
ずる、ずる、と。
来てみろ。
これが欲しかったんだろ。
土に塗れ横たわったまま、ノクスは挑むような黒い瞳をそれに向けた。
それはゆっくりとノクスの前に来た。
痛みを抱えたように震え、そのた泥がたれる。
膝を折り、ゆっくりとノクスに顔を近づけた。
「……こレで」
崩れ始める。
足元から、さらさらと。
黒が、ほどける。
ノクスの中に流れ込んでくる。
仰向けのまま、ノクスはそれを見る。
視界は狭い。
でも、見えた。
黒い、泥のような涙。
歪んだ口が、緩む。
安堵したみたいに。
「あア……あたたかイ」
その声が、消える。
完全に。
ノクスの中へ。
―――うるさい。馬鹿野郎。
ノクスはもう声が出なかった。
「ファルネ!」
フリードリヒの声。
近づいてくる。
でも。
抜ける。
フリードリヒの中からも、魔力が。
彼は崩れ落ちた。
森が、静かになる。
梢から鳥が落ちる。
音が消える。
ノクスは、浅い息をしていた。
もう、ほとんど入ってこない。
痛みも、遠い。
ただ、ひどく眠い。
――死ぬのか。
ぼんやりと考える。
『死んだら召還される』
ビアンカの声がよぎる。
リーリエのいない世界。
新しい場所。
「……」
声にならない。
涙だけが、流れた。
―――最後に見るのがフリードリヒなんて。
くそ。
死にたくない。
こんな所で。
こんな奴の前で。
風が吹く。
強く。
木々が揺れる。
――あ。
目の端に。
塔。
丘の上。
王都の中心。
魔法塔。
「……ぁ……」
思い出す。
君の笑った顔。
手の温もり。
優しい声。
『私の大切な場所なの』
胸が、焼ける。
「……リール……ヒェン……」
名前を呼ぶ。
残っていた力を、無理やり絞り出す。
流れるな。
止まれ。
塔だけは。
まぶたの裏に、昨日の背中。
振り返った笑顔。
『ノイ』
あたたかい手。
青い瞳。
――俺が、守る。
それだけが、残った。
空は、やけに青かった。
雲ひとつなかった。




