表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
69/70

69


ノクスは動けなかった。


こんな黒くて悍ましい生き物、知らない。


森の光が、そこだけ歪んでいた。

晴れているのに、木漏れ日が濁る。影が沈む。

足元の土が、じわりと湿っていく。


細長い身体は、泥のような布とも影ともつかないものに包まれている。

黒い髪は逆立ち、黒い瞳は光を一切返さない。


生き物なのに、歪で。許されない存在のように感じた。


ずっと、小さく呻いている。

ただ、痛みだけで形を保っているみたいだった。


ぎし、と。


その巨体が、ぎくしゃくと折れ曲がる。

骨が軋むみたいに身を捩り、眉間に深く皺を寄せて、歯を鳴らす。


カチ、カチ、と。


乾いた音が、森の静寂に妙に響いた。


「……っ、ぁ……」


呻き声はかすれて、震えていて、ひどく弱々しい。

なのに。

近づいてくるだけで、息が詰まる。

存在そのものが重い。押し潰されそうだ。


ノクスの足は動かなかった。

視界の端で、フリードリヒを探る。

倒れている。動かない。


お前が出したくせに。


怒りと恐怖が、胸の奥でぐちゃぐちゃに混ざる。

その間に――


それは、もう目の前まで来ていた。

身体中からぶわりと冷や汗が出た。

ゆっくりと、顔が近づく。

ノクスの足元に、黒い泥が落ちる。


ぼたり。


ぼたり。


触れた土が、じわりと変色していく。腐るみたいに。


息が止まりそうになる。

見られている。

観察されている。

目が合っているのに、見られていないみたいな、不気味な感覚。


その真っ黒な瞳が、ふっとノクスから外れ、長く、息を吐く。

そして、小さく呟く。


「……ちいサい」


言葉だった。

ノクスの思考が、一瞬だけ動く。


会話――


そう思った瞬間。

トン、と。

胸を、軽く押された。


「――ッ、ゴフッ!」


何かが、内側で潰れた。

空気が抜ける。呼吸ができない。

膝から崩れ落ちる。視界が歪む。

血が、口から溢れた。


何が起きたのか、分からない。


理解が追いつく前に、胸の奥から激痛が突き上げる。


「……っ、ぐ……!」


息を吸おうとしても、入ってこない。

肺が、潰れているみたいだ。

黒い魔力を吸い込む力が強まる。

その瞬間。

それが、しゃがんだ。


ぐい、と。

髪を掴まれ、無理やり顔を上げられる。


「――ッ、ぁ……!」


頭が引き裂かれるみたいに痛い。

垂れてきた泥が頬に触れる。


一瞬視界が滲む。

それでも、目を開けた。

顔は綺麗なままだ。

確かに顔に付いたはずなのに。


目の前に、笑顔があった。

歪んだ口。空洞みたいな笑み。

真っ黒な瞳。


「……おおキく、なル」


しゃがれた声。

ぞわり、と背筋が凍る。


「離せ……っ!」


腕を掴む。

滑る。泥で力が入らない。

それでも、必死に掴んで蹴り上げた。


「――ッ!」


お互いの体がぐらりと揺れる。

手が離れる。

ノクスの身体が転がり、地面に叩きつけられる。


「ぐっ、グフッ!」


咳き込みながら血を吐く。

胸が、へこんでいる。呼吸がまともにできない。


「もっト、おおキクなっテ」


ぼた、ぼた、と。

泥を垂らしながら、それが近づいてくる。


ノクスは地面を蹴って体を後ろに押した。

身体が言うことをきかない。それでも、少しでも距離を取ろうとする。


「さっきから……何の話だ……!」


ノクスは声を張る。口から血が飛び散った。

それは、ぴたりと止まった。

笑みが、消える。


「……まを、おくル」


「……は?」


思考が空回りする。


「まだ……ちイさい」


意味が分からない。

でも。

答えを間違えたら、死ぬ。

本能が叫んでいる。

それが、再び手を伸ばす。

ノクスは思わず目を閉じた。


次の瞬間。

鈍い衝突音。

それと、叫び声。


「ファルネ!」


名を呼ばれて、目を開ける。

フリードリヒだった。

氷の剣が、異形の肩口から腕を切り裂いた。右腕がぼとりと落ち、泥が飛び散った。

傷口からは氷が走る。

異形が金切り声をあげた。


「フリードリヒ……!」


「死にたいのか!」


フリードリヒはノクスを背にして異形を剣を構えた。


「なんだこいつは」


ノクスはフリードリヒを睨んだ。血が泡立って声が上手く出なかった。


叫び声を上げながら異形は、肩口の氷をガリガリと掻きむしる。その中から新しい手が生えた。

ぼろぼろとこぼれた氷が泥にまみれて、黒い欠片が舞う。


「逃げろ!」


フリードリヒが斬り込む。

異形が腕を出す。

ギィン!と硬い音と共に剣が弾かれる。

フリードリヒは突きを繰り出す。

異形の長い腕に阻まれる度、氷の欠片と泥が飛び散って、泥濘が出来る。


ノクスは、熱に浮かされたようにそれを見ていた。

胸を押さえながら、頭には異形の言葉がぐるぐる回る。


「……まを、おくる……」


呟く。


ちいさい。

おおきくなる。


さっき、自分は何をした。

呼吸が苦しい。血の味が濃い。

集中できない。

また、吸っている。

黒い魔力が、勝手に流れ込んでくる。


その瞬間。

異形が、ぐるりとこちらを見た。


「……おおキク、なっタ」


笑う。


「行かせるか!」

フリードリヒの渾身の剣が胸を貫く。体が揺れる。

だが、止まらない。振り上げる長い爪で、フリードリヒの額が切れた。


「まを、おくル」

魔を、送る。


ノクスは地面に崩れた。


「……あぁ」


ノクスは押さえ込みを、やめた。


瞬間。


世界が変わる。


黒い魔力が、奔流のように集まってくる。

森の影がざわめき、梢から鳥が落ちる。

大きな影法師が窓に張り付く。

空気が歪む。


見える。


家の中。壁に刻まれた魔法陣。

リーリエが何度も書き直した線。

それが、ほどけて、流れてくる。


吸い込む。


止まらない。


異形がフリードリヒを蹴り飛ばす。

木立に叩きつけられる音。

「ぐっ!」

フリードリヒはそのまま草の上に転がった。目の前が血に滲む。


異形が、ノクスに近づいてくる。

ずる、ずる、と。


来てみろ。

これが欲しかったんだろ。


土に塗れ横たわったまま、ノクスは挑むような黒い瞳をそれに向けた。


それはゆっくりとノクスの前に来た。

痛みを抱えたように震え、そのた泥がたれる。


膝を折り、ゆっくりとノクスに顔を近づけた。


「……こレで」


崩れ始める。

足元から、さらさらと。

黒が、ほどける。

ノクスの中に流れ込んでくる。

仰向けのまま、ノクスはそれを見る。


視界は狭い。

でも、見えた。


黒い、泥のような涙。

歪んだ口が、緩む。

安堵したみたいに。


「あア……あたたかイ」


その声が、消える。

完全に。

ノクスの中へ。


―――うるさい。馬鹿野郎。


ノクスはもう声が出なかった。



「ファルネ!」


フリードリヒの声。

近づいてくる。

でも。

抜ける。

フリードリヒの中からも、魔力が。

彼は崩れ落ちた。


森が、静かになる。

梢から鳥が落ちる。

音が消える。


ノクスは、浅い息をしていた。

もう、ほとんど入ってこない。

痛みも、遠い。


ただ、ひどく眠い。


――死ぬのか。


ぼんやりと考える。


『死んだら召還される』


ビアンカの声がよぎる。

リーリエのいない世界。

新しい場所。


「……」


声にならない。

涙だけが、流れた。


―――最後に見るのがフリードリヒなんて。


くそ。

死にたくない。

こんな所で。

こんな奴の前で。


風が吹く。

強く。

木々が揺れる。


――あ。


目の端に。

塔。


丘の上。

王都の中心。

魔法塔。


「……ぁ……」


思い出す。

君の笑った顔。

手の温もり。

優しい声。


『私の大切な場所なの』


胸が、焼ける。


「……リール……ヒェン……」


名前を呼ぶ。

残っていた力を、無理やり絞り出す。


流れるな。

止まれ。

塔だけは。


まぶたの裏に、昨日の背中。

振り返った笑顔。


『ノイ』


あたたかい手。


青い瞳。


――俺が、守る。


それだけが、残った。


空は、やけに青かった。


雲ひとつなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ