68
リーリエが天空資料室に囚われている頃。
森の奥の家の扉が、軋む音を立てて開いた。
ノクスは寝不足の目を擦りながら、ボサボサ頭のまま外へ出る。
服も無造作にくつろげている。
朝日が目に染みる。
森のざわめきが耳に届く。人の気配は無い。
昨日リーリエは帰ってこなかった。
スヴァルトハイムの本邸に印章を取りに行くと言っていたから、そのまま泊まったのだと信じたい。
フリードリヒに会いにいくと、リーリエは言わなかった。
でも。
酷く胸が騒いで、ノクスの周りに消えかけの影法師が現れる。
黒い魔力に反応する、魔法陣。その線を描く魔力さえノクスが吸い込むから、リーリエは何度も書き直していた。
部屋中に描かれている、ノクスには見えない、ノクスのための魔法陣。
リーリエが、ノクスのために、何度も書き直してくれた。
ノクスは首を振った。
結婚するんだ。彼女が成人したら。
彼女の笑顔を思い出して、ノクスはやっと心が穏やかになった。
そして――気づいた。
そこに立っていたのは、フリードリヒだった。
場違いな存在。
森の静けさを、剣で切り裂いたみたいに、浮いている。
その手には、紺の魔導書。
リーリエのものだ。昨日も彼女は持って出かけた。
それを、当たり前みたいに抱えている。
ノクスの喉がひくりと動いた。
フリードリヒの気分は、最悪だった。
青白いというより、濁っている。 目の奥は焦点が合っていないのに、妙にぎらついている。
ビアンカの白い魔力に浸り続けた、酩酊状態。
それだけじゃない。
「嘆きの沼」から帰ってきてからずっと、頭が痛い。 体も痛い。 眠れない。 何も考えがまとまらない。
酒も、回復魔法も、ただの誤魔化しにしかならない。
そのくせ、仕事は積まれていく。
リーリエはいない。
――そして、夢だけは鮮明だった。
黒い魔力を抜かれた時の、あの感覚。
内側の“何か”が剥がれ落ちるような、あの異様な解放感。
同時に訪れる、渇き。
求めてしまう。
無意識に。
あの男を。
ノクスを。
(気味が悪い)
理解できない。
なのに、忘れられない。
視界の端にちらつく残像が、日に日に濃くなる。
嫌悪と、苛立ちと、得体の知れない衝動。
全部まとめて、ひとつの形になる。
――憎い。
それだけが、はっきりしていた。
そして今。
その“原因”が、目の前にいる。
「探したぞ」
フリードリヒが言う。
声は低く、乾いている。
「話をしようじゃないか」
ノクスは、鼻で笑いそうになるのを堪えた。
話?
「なに、お前の正体が分かれば、すぐ帰るさ」
にじり寄る。
一歩ずつ。
触れられる距離を、無意識に避けながら。
直接触れたくない。
ノクスに触れたら、何かが壊れると分かっているから。
(気持ち悪いな、この人)
ノクスの視線が冷える。
フリードリヒの顔色。足取り。不穏な挙動。
こんな状態で、リーリエのそばにいたのか。
それでいて、彼女はこの男を――
「その本」
ノクスは思わず、声を漏らした。
フリードリヒの腕の中。
彼女の魔導書。
リーリエが大切にしている、自分は触れないもの。
触れて、黒い魔力を吸って、魔法陣を壊してしまった。
だからもう、触れることすら許されていない。
昨日もリーリエは魔導書を持って出かけた。
それを。
(なんでお前が持ってる)
喉の奥が焼ける。
ノクスの顔に嫉妬が、露骨に浮かび上がる。
フリードリヒは、それに気づいていない。
ただ、忌々しそうにノクスを睨む。
その黒い瞳が、気に食わない。
全部、気に食わない。
森の中の小さな家。
そこから出てくる、この男。
――二人で住んでいる。
その事実が、頭の中で勝手に形を持つ。
笑い声。 距離。 触れ合い。
想像が勝手に膨らんでいく。
「……っ」
奥歯が鳴る。
フリードリヒは、魔導書を投げた。
無造作に。
地面へ。
ノクスの身体が反応しかけて、止まる。
拾えない。
触れたら壊れる。
その一瞬の躊躇を、フリードリヒは見逃さなかった。
「ファルネ」
低くノクスを呼ぶ。
「お前は、その本を開いたことがあるか」
「……あるよ」
意味が分からないまま、ノクスは答える。
フリードリヒは、小さく笑った。
壊れたみたいに。
「分からないんだよ」
誰に言っているのかも分からない声。
「私がやった雑記帳だ。あれは、大事に使っていた」
視線は、地面に転がる魔導書へ。
「魔法陣を立ち上げて、敵を殺して、魔物を潰して」
言葉が荒れる。
「それで全部、ねじ伏せていたはずだ」
静かになる。
そして。
「なのに、どうだ」
吐き捨てる。
「中は真っ白だ」
沈黙。
「何も書いていない」
その一言に、歪んだ感情が全部詰まっていた。
「……あれは、私を騙していたのか?」
ノクスは、眉をひそめる。
「魔法が苦手だと? 嘘だったのか?」
違う。
でも、この男にはもう届かない。
壊れている。
リーリエの像が。
信じていたものが。
崩れて、代わりに“疑い”が入り込んでいる。
そして――
その原因を、目の前の男に押し付けている。
「お前だろう」
フリードリヒの目が、ぎらりと光る。
「毎晩、私の夢に現れて」
一歩、近づく。
「リリを、私から奪おうとしているのは」
ノクスの口元が歪む。
「は?」
呆れと、苛立ち。
「夢の中でも会ってるんだ。へえ」
軽く笑う。
「俺の、リールヒェンに」
フリードリヒの表情が変わる。
ノクスも笑みを隠す。
お互い一歩、踏み出す。
距離を詰める。
(魔力を、抜いてやろうか)
ノクスの頭によぎる。
そんな事したら、どうなるか分からない。
こんなに顔色の悪いフリードリヒから、黒を抜く。
壊れるかもしれない。
でも――知ったことか。
その時だった。
「ぐっ……」
フリードリヒの身体が、がくりと崩れた。
「うぅ……っ」
前のめりに倒れ、膝をつく。
「え?」
ノクスが目を見開く。
異常だ。
ただの酩酊じゃない。
フリードリヒの背中が激しく跳ね、そのたびに苦しそうにうめいている。
そして大きく歪む。
内側から、何かが押し出されるように。
黒い。
濁った。
粘つく気配。
「――は?」
ノクスはぞわりと総毛立つ。
それが、フリードリヒの中から“滲み出てきた”。
ゆっくりと。
這い出るように。
それは、
歪で、不完全な輪郭。
けれど、本能が理解する。
――これは黒い魔力だ。
「嘆きの沼」の卵は、空じゃなかった。
生まれていた。
未熟なまま。
宿主を見つけて。
王の中に潜り込み。
育っていた。
黒い魔力を餌にして。
静かに。
確実に。
フリードリヒは、“器”だった。
そして今。
それは、外に出ようとしている。
理由は一つ。
見つけたからだ。
ずっと、求めていたものを。
痛みを消し去る存在。
黒を、救う存在。
「……あなた」
それは、ノクスを見た。
歪んだ輪郭の奥で、確かに。
歓喜に似たものを、滲ませながら。
ついに見つけた。
――我らの聖者。




