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リーリエが天空資料室に囚われている頃。

森の奥の家の扉が、軋む音を立てて開いた。

ノクスは寝不足の目を擦りながら、ボサボサ頭のまま外へ出る。

服も無造作にくつろげている。

朝日が目に染みる。

森のざわめきが耳に届く。人の気配は無い。


昨日リーリエは帰ってこなかった。

スヴァルトハイムの本邸に印章を取りに行くと言っていたから、そのまま泊まったのだと信じたい。


フリードリヒに会いにいくと、リーリエは言わなかった。


でも。


酷く胸が騒いで、ノクスの周りに消えかけの影法師が現れる。

黒い魔力に反応する、魔法陣。その線を描く魔力さえノクスが吸い込むから、リーリエは何度も書き直していた。


部屋中に描かれている、ノクスには見えない、ノクスのための魔法陣。

リーリエが、ノクスのために、何度も書き直してくれた。


ノクスは首を振った。

結婚するんだ。彼女が成人したら。

彼女の笑顔を思い出して、ノクスはやっと心が穏やかになった。


そして――気づいた。


そこに立っていたのは、フリードリヒだった。

場違いな存在。

森の静けさを、剣で切り裂いたみたいに、浮いている。

その手には、紺の魔導書。

リーリエのものだ。昨日も彼女は持って出かけた。

それを、当たり前みたいに抱えている。

ノクスの喉がひくりと動いた。



フリードリヒの気分は、最悪だった。

青白いというより、濁っている。 目の奥は焦点が合っていないのに、妙にぎらついている。

ビアンカの白い魔力に浸り続けた、酩酊状態。

それだけじゃない。

「嘆きの沼」から帰ってきてからずっと、頭が痛い。 体も痛い。 眠れない。 何も考えがまとまらない。

酒も、回復魔法も、ただの誤魔化しにしかならない。

そのくせ、仕事は積まれていく。

リーリエはいない。


――そして、夢だけは鮮明だった。

黒い魔力を抜かれた時の、あの感覚。

内側の“何か”が剥がれ落ちるような、あの異様な解放感。

同時に訪れる、渇き。

求めてしまう。

無意識に。

あの男を。

ノクスを。


(気味が悪い)


理解できない。

なのに、忘れられない。

視界の端にちらつく残像が、日に日に濃くなる。

嫌悪と、苛立ちと、得体の知れない衝動。

全部まとめて、ひとつの形になる。


――憎い。


それだけが、はっきりしていた。

そして今。

その“原因”が、目の前にいる。


「探したぞ」


フリードリヒが言う。

声は低く、乾いている。


「話をしようじゃないか」


ノクスは、鼻で笑いそうになるのを堪えた。

話?


「なに、お前の正体が分かれば、すぐ帰るさ」


にじり寄る。

一歩ずつ。

触れられる距離を、無意識に避けながら。

直接触れたくない。

ノクスに触れたら、何かが壊れると分かっているから。


(気持ち悪いな、この人)


ノクスの視線が冷える。

フリードリヒの顔色。足取り。不穏な挙動。

こんな状態で、リーリエのそばにいたのか。

それでいて、彼女はこの男を――


「その本」


ノクスは思わず、声を漏らした。

フリードリヒの腕の中。

彼女の魔導書。

リーリエが大切にしている、自分は触れないもの。

触れて、黒い魔力を吸って、魔法陣を壊してしまった。

だからもう、触れることすら許されていない。

昨日もリーリエは魔導書を持って出かけた。

それを。


(なんでお前が持ってる)


喉の奥が焼ける。

ノクスの顔に嫉妬が、露骨に浮かび上がる。


フリードリヒは、それに気づいていない。

ただ、忌々しそうにノクスを睨む。

その黒い瞳が、気に食わない。

全部、気に食わない。

森の中の小さな家。

そこから出てくる、この男。

――二人で住んでいる。

その事実が、頭の中で勝手に形を持つ。

笑い声。 距離。 触れ合い。

想像が勝手に膨らんでいく。


「……っ」


奥歯が鳴る。

フリードリヒは、魔導書を投げた。

無造作に。

地面へ。

ノクスの身体が反応しかけて、止まる。

拾えない。

触れたら壊れる。

その一瞬の躊躇を、フリードリヒは見逃さなかった。


「ファルネ」


低くノクスを呼ぶ。


「お前は、その本を開いたことがあるか」


「……あるよ」


意味が分からないまま、ノクスは答える。

フリードリヒは、小さく笑った。

壊れたみたいに。


「分からないんだよ」


誰に言っているのかも分からない声。


「私がやった雑記帳だ。あれは、大事に使っていた」


視線は、地面に転がる魔導書へ。


「魔法陣を立ち上げて、敵を殺して、魔物を潰して」


言葉が荒れる。


「それで全部、ねじ伏せていたはずだ」


静かになる。

そして。


「なのに、どうだ」


吐き捨てる。


「中は真っ白だ」


沈黙。


「何も書いていない」


その一言に、歪んだ感情が全部詰まっていた。


「……あれは、私を騙していたのか?」


ノクスは、眉をひそめる。


「魔法が苦手だと? 嘘だったのか?」


違う。

でも、この男にはもう届かない。

壊れている。

リーリエの像が。

信じていたものが。

崩れて、代わりに“疑い”が入り込んでいる。

そして――

その原因を、目の前の男に押し付けている。


「お前だろう」


フリードリヒの目が、ぎらりと光る。


「毎晩、私の夢に現れて」


一歩、近づく。


「リリを、私から奪おうとしているのは」


ノクスの口元が歪む。


「は?」


呆れと、苛立ち。


「夢の中でも会ってるんだ。へえ」


軽く笑う。


「俺の、リールヒェンに」


フリードリヒの表情が変わる。

ノクスも笑みを隠す。

お互い一歩、踏み出す。

距離を詰める。


(魔力を、抜いてやろうか)


ノクスの頭によぎる。

そんな事したら、どうなるか分からない。

こんなに顔色の悪いフリードリヒから、黒を抜く。

壊れるかもしれない。

でも――知ったことか。

その時だった。


「ぐっ……」

フリードリヒの身体が、がくりと崩れた。


「うぅ……っ」


前のめりに倒れ、膝をつく。


「え?」


ノクスが目を見開く。

異常だ。

ただの酩酊じゃない。

フリードリヒの背中が激しく跳ね、そのたびに苦しそうにうめいている。

そして大きく歪む。

内側から、何かが押し出されるように。

黒い。

濁った。

粘つく気配。


「――は?」


ノクスはぞわりと総毛立つ。

それが、フリードリヒの中から“滲み出てきた”。

ゆっくりと。

這い出るように。

それは、

歪で、不完全な輪郭。

けれど、本能が理解する。


――これは黒い魔力だ。




「嘆きの沼」の卵は、空じゃなかった。

生まれていた。

未熟なまま。

宿主を見つけて。

王の中に潜り込み。

育っていた。

黒い魔力を餌にして。

静かに。

確実に。

フリードリヒは、“器”だった。

そして今。

それは、外に出ようとしている。

理由は一つ。

見つけたからだ。

ずっと、求めていたものを。

痛みを消し去る存在。

黒を、救う存在。


「……あなた」


それは、ノクスを見た。

歪んだ輪郭の奥で、確かに。

歓喜に似たものを、滲ませながら。

ついに見つけた。


――我らの聖者。

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