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天空資料室は、恋をしていた少女が作った場所だった。
フリードリヒに来てほしかった。
ここなら、誰にも邪魔されない。 ここなら、誰にも聞かれない。 ここにある本も、ここで書いた言葉も、外には持ち出せない。
だから、会いに来てくれる。 だから隣に、いられると思った。
たったそれだけの願いを、形にした部屋だった。
十四歳の、どうしようもなくまっすぐで、どうしようもなく甘い願い。
―――
「あの頃のロマンチック魔法使いめ」と浅慮なかつての自分に拳を握る。
立ち尽くしている場合じゃない。
リーリエはゆっくりと息を吸った。
ビアンカの去り際の捨て台詞を思い出す。
外からの救援は望みが薄そうだ。
ゆっくり息を吐く。
ここは自分が作った場所だ。 これは想定外だけれど、解決の糸口はあるはずだ。
そう信じて、書架へと足を向ける。
「あ」
何も無い所で、足がもつれた。
立ち上がろうと床に手をつく。その指先が、震えていた。
あ、まずい。
閉じ込められた恐怖が迫り上がる。
リーリエは咄嗟にもう片方の手でその手を強く握って胸に押し当てた。
「大丈夫。大丈夫」
目を閉じて、息を整える。
ゆっくり目を開ける。資料室の、リーリエが集めた夥しい数の本が、無機質に棚に並べられている。
「大丈夫。大丈夫」
もう一度。今度は強く、自分に言い聞かせる。
「出口を探すのよ。リーリエ・スヴァルトハイム」
リーリエは立ち上がり、よろよろと歩き出す。
未だ震える指先で本の背をなぞりながら、必要な資料を引き抜いていく。
この部屋は黒い魔法陣で組まれている。 人を傷つけられない。大声も出せない。強い魔法も使えない。
完璧に、閉じている。
(外から壊すか、内側から抜け道を探すか)
どちらかしかない。
けれど――
リーリエは唇を噛んだ。
抜け道なんて、作っていない。
作るはずがなかった。
この部屋は、“守るための場所”だったから。 壊されないために、隙なんて一つも残さなかった。
それに、自分なら外からどうにでもできると思っていた。
――中に閉じ込められるなんて、考えもしなかった。
机に積み上げた本を前に、思考がぐるぐる回って気が遠くなる。
ここでは強い魔法は使えない。 使えるのは精度が重要な小さい魔法。
「はっ」
乾いた笑いが出た。
精度?そんなもの―――
フリードリヒの氷の蔓薔薇が視界に入る。
繊細で、優雅な薔薇の花。力強くて伸びやかな蔓。土台になっている霜は均一にできるくせに、私が踏んだ時に踏み心地がいいように、わざと不均等に作られている。
魔力量と操作性。彼の才能と努力がこの美しい蔓薔薇に現れている。
あれ程の魔力操作が、自分にも出来たなら、あるいは。
(意味無い。そんな、もしもの話)
自分が、ひどく小さく感じた。
魔力量だけは人並み外れているのに。 それを振るう術が、ここでは封じられている。
何もできない。
完璧だと思っていた場所が、自分を閉じ込める檻になるなんて。
机に詰んだ本が崩れてバラバラと床に落ちた。
「あぁ、もう……」
しゃがんで視線を落とすと、じわりと視界が滲む。
こぼれそうになる涙をこらえようと、リーリエは顔を上げた。
ドーム型の天井。
ガラス越しに広がる、空。
いつもの、黒い空だ。
リーリエの目には、世界はいつも黒い魔力に覆われて見える。 だからこの天井は、フリードリヒのために作った。
彼にだけ、綺麗と噂の青空が見えるように。
柔らかな光が降りて、金色の髪がきらきらと輝くのを、隣で見たかった。
私の太陽。
――なのに。
涙で黒が滲んで。リーリエは両手で顔を覆った。
嫌な事ばかり思い出す。
フリードリヒの狂気の瞳。
ノクスの口元の赤。
ビアンカの勝利宣言。
ここから出たとして、自分に居場所なんてあるのだろうか。
暖かい日差しが心地いい、閉じた世界。
時間が止まったようなこの部屋にいれば、心配事なんてなかったみたいに穏やかでいられる。
リーリエの口は震えた。
その残酷さに救いを感じるなんて。
リーリエは大きく息を吸って、空に向かって息を吐いた。
駄目だ駄目だ。
孤独に飲まれて思考が立て直せない。
リーリエは顔を上げたまま涙を拭った。
しっかりしなきゃ。
しっかりしなきゃいけないのに―――
ドーム型の天井から降り注ぐ太陽が眩しい。
「……あ、」
光に刺されて目が眩む。
なぜ。
息が、止まった。
恐る恐る、光に慣れた目を開ける。
そこにあったのは。
青。
ドーム型のガラス天井いっぱいに。
どこまでも澄み渡る、青空だった。
黒くない。 濁っていない。
ただ、ひたすらに、透明で、広くて、眩しい。
太陽の眩い光が、まっすぐに降りてくる。
世界って、こんな色をしていたのかと、初めて知る。
「……ああ……」
声にならない声が漏れる。
震える手で口を覆う。
空が、こんなに青いなんて。
光が、こんなに優しいなんて。
これが、誰もが見ている普通の空。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
同時に、あたたかいものが満ちてくる。
なのに。
夢にまで見た果てしない青空。
それが今、これほど孤独を突きつけてくる。
涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。
止まらない。
「ノクス」
自然と、その名前がこぼれる。
黒の聖者。
王都中の魔力を、根こそぎ吸い上げるような真似。
そんな無茶を、躊躇いなくやる人間。
(そんなことしたら)
王都はどうなるのか。 皆は無事なのか。
心配なのに。
胸の奥に広がるのは、不思議なほどの温もりだった。
思い出す。
あの日の声。
『君のためなら、王都中の魔力が空っぽになっても構わない』
ふざけたみたいに言っていたのに。 本気で言っていたのだと、今ならわかる。
「……ばかな事」
笑おうとして、声が震えた。
涙が止まらない。視界が青く滲む。
完璧だと思っていたこの部屋。 誰にも壊されないように作ったこの場所。
気づいていた。部屋の魔法陣がひとつも消えていない。
(大切だって)
そう言ったのは自分だ。
昨日、ちゃんと向き合えなかった。自分の気持ちが 信じきれなくて、ノクスの待つ家に帰れなかった。
それなのに。
(見せてくれたの)
こんな無茶をして。
涙で滲む青空を見上げながら、リーリエは小さく呟いた。
「ノイ」
声は震えていた。
それでも、確かに願った。
会いたい。
謝りたい。
ちゃんと、伝えたい。
この胸の奥でぐちゃぐちゃになっているものを、 逃げずに、全部。
リーリエは机の本をめくる。
自分が集めた魔法陣に関する資料。
ここから出るんだ。
ノクスに会って。
フリードリヒに会って。
ビアンカにも、ひとこと言ってやらないと気が済まない。
未だ震える指先で潤む瞳で。
ここで出来ることは全部やる。
何度だって試すんだ。
大丈夫。それは得意な事だから。
リーリエ・スヴァルトハイムはそうやって大魔法使いになったのだから。




