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翌日、リーリエは「聖女」ビアンカと共に、その資料室にいた。


昨日のことを差し引いても、リーリエはビアンカが苦手だった。


フリードリヒ。

ノクス。


彼らはリーリエにビアンカの話をしない。

きっと思い出を秘密にしたいのだ。彼女を独り占めにしたいのだ。


リーリエだってそうだ。

彼女の言葉に傷ついて、そのくせ白い魔力にあてられて彼女に「慈愛の聖女」の幻を求めてしまう。その生理的な嫌悪感と陶酔の混濁が、リーリエをひどく混乱させた。



一方、ビアンカは、リーリエを憎んでいた。


フリードリヒの寝言。

騎士の会話。

ノクスの選択。


リーリエの事を思い出す彼らは、懐かしそうに、愛しそうに、宝物のようにその名を呼ぶのだ。


何度召喚されても得られなかったものがここにあるのに。それは全てリーリエが持っていた。



ビアンカの胸の奥で、あの沼のような泥が広がる。



天空資料室には「人を攻撃できない」「大声を出せない」「魔法は小さなものだけ」という制約がある。

リーリエが入口で説明している途中でビアンカは扉を開けた。


「……資料を守るために、特殊な魔法陣が働いています。大声を出すと自分の耳にだけ響きます。鼓膜が破れかねません。決して叫ばないでくださいね」


リーリエがビアンカの後を追いながら説明を続けた。

ビアンカはイライラした。、部屋を見るだけなのに何と説明の多いことか。

くだらない。融通の効かないつまらない部屋。


ビアンカが侮蔑の瞳を送ると、リーリエがガラス天井の下に差し掛かっていた。その銀色の髪が、天井からの柔らかい光を浴びて神々しいほどに輝く。

「妖精公爵」

度々耳に入るリーリエの二つ名を、ビアンカ自身も連想してしまった。

それが許せなかった。


「最後に、ここで書き物をしてしまうと資料として扱われ、持ち出せなくなります。余計な落書きなどは……っ、痛っ!」


突然、リーリエが首の後ろを押さえてうめいた。


「ねえ」

ビアンカが急にリーリエに声をかけた。


「はい。質問ですか」


首筋を抑えたまま振り返るリーリエを訝しんだが、ビアンカは続けた。


「いえ。そうではないの。あなたにお願いがあって」


「なん、痛っ。なんでしょう」


「フリッツがしているブレスレット、あれ、あなたが作ったのでしょう?」


「はい」


ビアンカは猫なで声でリーリエを流しみた。


「あれ、私にも作ってくれない?」

気に入っちゃったのよね。ビアンカがそう言うと、リーリエは即答した。


「それはいけません」


「え、何故かしら」


断られらると思ってなかったビアンカは狼狽えた。

リーリエはキッパリと言った。


「あなたは聖女としての役割を期待されて召喚されていますので、あのブレスレットは渡せません」


ビアンカは意味がわからないとでも言いたげな笑いを浮かべた。


「じゃあ、あなた、私にずっと魔力を垂れ流しておけって言うわけ?」


ビアンカは苛立ち紛れにいつもなら口にしないような言葉を口にした。


「誰も彼も腑抜けになってもいいって?私には今、侍女もついてないのよ」


「いえ、そうではなく、もっとこうっ、痛」


リーリエはまた首を触った。


「さっきから、どうしたのよ?」


ビアンカが見かねて言った。


「……何かに、髪を引っ張られて」

リーリエは後ろ手に取ろうとするが、中々上手くいかない。


「―――見せてごらんなさい、取ってあげるわ」


リーリエは怯んだ。チョーカーを外されるのは困る。

「え、だ、大丈夫です。自分で…痛っ」


「もう、かしなさいよ」


ビアンカは呆れ、リーリエの返事を待たずに彼女の髪をかき分けた。リーリエが着けていたチョーカーの金具に、髪が絡まっている。それを外してやると、ビアンカはうなじに付けられたその「赤」を見つけた。


首筋に残る、生々しい熱の痕。


ノクスが刻んだ、深い愛撫の印。

ビアンカの中で、理性の糸が音を立てて千切れた。

自分を拒絶した男が、こんな子供を抱き、印を刻んだ。そう思った瞬間、ビアンカの自尊心はズタズタに引き裂かれた。

汚してやりたい。

この潔癖な世界ごと、この女を塗り潰してやりたい。

視界の端に、備え付けのペンが映った。


ビアンカは迷わずペンを手に取ると、その赤い痕の上から、容赦なく「×」と書き殴った。

ビアンカの心がスッとした。


「……っ!? 何を……」


リーリエが吃驚して振り返った。

首の落書きも、慌てる様子も、ビアンカの目には無様に映った。

本当はリーリエが大事にしているこの資料室を侮辱して汚してやろうと思っていたけれど。

ビアンカはもう、興味を失ったようにペンを戻していた。


「飽きたわ。戻るわね」


ビアンカは優雅な足取りで扉へ向かう。


「えっ?まだ何も見てないのに?」


慌ててリーリエが後を追おうとしたリーリエは、開かれた扉の前でガツン、と見えない壁に跳ね返された。


「……え?」


おかしい。何度やろうとしても、リーリエは部屋から出ることができない。

手を伸ばすと、そこには透明な壁があるようだった。

リーリエは見えないそれを思い切り叩いた。

拳は弾かれ、しかし何の音もしない。


「なに、これ」


困惑するリーリエ。

扉の外へ出たビアンカは、ついて来ないリーリエを不思議に思い振り返った。


「え、なに?」


彼女も最初、リーリエに何が起きているか分からなかった。


思わずビアンカが手を伸ばすとリーリエの手に触れた。

しかし、その手を引いてもなにかに引っかかったように外には出せなかった。


「えっ」


ふたりは顔を見合せた。


(…そういえば、リーリエはさっき、なんか言ってたわね)


ビアンカの脳裏にリーリエの言葉が浮かんでは消えた。


「人を攻撃できない」

「大声を出せない」

「魔法は小さなものだけ」


制約の多い、面倒な部屋。リーリエがビアンカに聞かせたそのルールのひとつに思い至る。


「文字を書くと、資料になる」


ビアンカの唇が、ゆっくり歪んだ。


「……ふふ」


笑いが漏れる。

抑えきれない。


「あはは……!」


ビアンカの肩が震える。

ああ、可笑しくてたまらない


リーリエは訳が分からずただビアンカを見ていた。


「あはは。ふふ。やだ、まだ分からないの?ねえ、リーリエ。自分の作った『完璧な部屋』に閉じ込められる気分はどう? 文字一つで本に成り下がるなんて、あなたにぴったりね」


ビアンカは、美しく整えられた指先で口元を覆い、喉の奥で転がすように笑った。

リーリエは目を瞠る。そして、首に手を当てた。ビアンカに何をされたのか、理解した。


「素敵ね、その透き通るようなあなたの白い肌。でも陛下が褒めるから……私が少し、書き足してあげたのよ。でもちょっと汚れただけで外に出られなくなるなんて。この部屋、あなたにそっくりで本当に融通が利かないのね」


「ビアンカ……あなた」


信じられないものを見るように、わななくリーリエ。ビアンカは嗤うのをやめた。


「……つまらない資料は、一生そこで埃を被っていなさい」


リーリエが大声を上げると、資料室の制約がリーリエの耳にだけ音を届ける。リーリエが耳を塞ぐ。絶望がリーリエを包み込んでいく。


「陛下には言っておいてあげるわ。あなたが陛下に愛想を尽かして、どこかへ逃げたって。……ああ、ノクスの事も安心して。彼はこれから、私だけが理解して、私だけが守ってあげる。分かってるでしょ?あなたみたいな子供には荷が重すぎたのよ」


ビアンカは扉の取っ手に手をかけ、最後に見下すような視線を投げた。


「さようなら。可哀想な、図書室の妖精さん」


扉が重厚な音を立てて閉まる。


天空資料室は、何事もなかったかのように、静かに本に光を落としていた。

その中に。

一冊分の“資料”が、増えただけだ。


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