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「お帰りなさいませ」
スヴァルトハイム邸に戻ると、下令や使用人が列になってリーリエを迎えた。
一週間ぶりの屋敷はほっとする温かさだ。
「変わった事はある?」
部屋でローブを脱がされながら、リーリエは言う。
リーリエは平静を装った。目が赤くなっていたが、誰も触れなかった。
「侍女のソフィアが辞めました」
「えっ!」
侍女長の言葉に、リーリエは振り返った。
あのお喋りと恋の噂が好きな可愛いソフィア。
リーリエと、ノクスの恋を応援していた。
仕事に不満があるようには見えなかったが。
「なぜ、辞めたのかしら」
「それが」
侍女長は言いにくそうに視線を彷徨わせたが、そっとリーリエに耳打ちした。
「様子がおかしくなってしまって。ファルネ様にお会いしたい。次はいついらっしゃるのかと気もそぞろで。寝食もろくにせずにぼんやりするようになりまして。先日倒れてしまったので、そのまま療養という形で辞めてしまったのです」
「ノクスに」
「申し訳ありません。そんな仲ではないと信じておりますが」
苦虫を噛み潰したような侍女長に、リーリエは困った顔をした。
誤解している。
きっとノクスに黒い魔力を吸われてしまったのだろうが、それを皆は知らない。
ソフィアには悪い事をした。
「後でお見舞いに行くわ」
「はい」
侍女長はそれ以上何も言わなかった。
リーリエは部屋で一息つくと、書斎に向かった。
使うかは別として、印章は持って行く。
と、廊下で侍女のアンナが他の使用人達と話をしていた。
「ソフィア、随分ファルネ様に入れ込んでいたわね」
何となく出ていけず、リーリエは廊下の角で、彼女達が散るのを待った。
「 貴族に遊ばれるとろくな事にならないわ」
冷たい声が聞こえる。リーリエは解けない誤解にため息が出た。
「でも、ファルネ様だったら」
「そうね、ファルネ様だったら」
急に風向きが変わり、リーリエはドキリとした。
「他のお貴族様と違ってお優しいし」
「あの瞳に見つめられると何も見えなくなってしまうのよね」
「ご挨拶してくださるだけで幸せだわ」
「仕事をしていても思い出してしまうわよね」
リーリエはゾッとした。
自分だけど思っていたのに。違う。
リーリエは侍女達を盗み見た。
彼女達の体内には、黒い魔力がほぼない。
何とかしなければ、彼女たちもいずれソフィアのようになってしまう。
リーリエが一歩踏み出したその時。
アンナがうっとりした声を出した。
「ファルネ様のお近くにいると、なんだか、あたたかいのよね」
あたたかい。
それは、ノクスという「人間」に対して思っていたはず。
自分だけに向けられる彼の眼差し、優しさ、触れる指先に宿る愛情。
そのはずなのに。
リーリエは立っていられなくなった。
書斎には、もう行かなくていい。
リーリエは彼女たちに気づかれないように踵を返す。
一度部屋に戻って―――
「あ」
かくんと膝の力が抜け、リーリエは倒れた。
その音に侍女達が驚いて駆け寄ってきた。
「リーリエ様!」
「お怪我はございませんか」
「起き上がれますか」
「いえ、大丈夫よ」
彼女たちの瞳は真っ直ぐで、それが余計に怖かった。
ゆっくり起き上がるリーリエは侍女の手を取った。
冷たい。
ハッとして侍女立ちを見渡す。
「あなた達、最近眠れてる?」
侍女たちはぎくりとした。
目の下のクマは、化粧で大分薄くしているはずなのに。
「変な夢を、見たりしていない?」
例えばノクスの。
そこまでは言えなかった。
侍女たちは顔を見合せた。ノクスに関する事だ。
リーリエに変に勘ぐられて職を無くしたくない。
「怒らないわ」
下を向いて視線を彷徨わせる侍女たちに、リーリエは優しく言った。
侍女達は、もう一度だけお互いを見合って、リーリエに頷いて見せた。
「で、でも、誓ってファルネ様とは何も!」
「そうです。私たち一方的にお慕いしているだけで」
「分かってるわ。ソフィアもきっとそうなのね」
顔色を無くす侍女達はぐうっと視線を下げた。
「眠るのが怖いんです」
一人が震える声を出した。
「私も。夢の中のファルネ様は、最初、笑ってるだけで。でも最近は、言われたこともない事を」
一人がうわ言のように話す。
「そう。夢の中のファルネ様は、赦してくださるんです」
1人が嬉しそうに呟く。
まるで懺悔でもするように、侍女たちはリーリエに告白した。
リーリエは声が出なかった。
リーリエもノクスの夢を見ていた。
しかし、それは幸せな夢だった。
夢でノクスに会い、起きると現実のノクスが「おはよう」という。
それは幸せな日常のはずだった。
「リーリエ様。私たち、どうしてしまったんでしょう」
両手で顔を覆い、震える彼女たちにハッとする。
しっかりしなくては。屋敷の主人が動揺していてはいけない。
「あなた達、しばらく教会に通いなさい」
「教会、ですか」
顔をあげる彼女たちの手を、リーリエはそっと握る。
「そう。毎月聖女様が教会にいらっしゃるでしょ。その日に必ず行くのよ」
月に一度、教会でビアンカの白い魔力を浴びれば渇きもおさまるかもしれない。
「大丈夫だから。約束して」
「は、はい」
リーリエはその返事にほっと息を吐いた。
侍女達が散り、リーリエは書斎に入った。
さっきの彼女たちの言葉を思い出す。
「あたたかい」
それは、リーリエだけが感じた、ノクス自身の特別な一面ではなかった。
自分だけは、見えているから大丈夫。
そんな訳ないのに。
自分がビアンカの白い魔力にすら酔っていたことを思い出し、目の前がグラグラした。
今日は上手く眠れないかもしれない。
不安な夜に抱きしめていた魔導書が、今日はない。
瞼の裏に、ノクスが微笑んでいる。
「赦す」
何を?




