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背後で閉ざされた重厚な扉の余韻が、冷たい廊下に響いていた。


フリードリヒの部屋から逃げ出してきたリーリエは、壁に背を預け、震える膝を必死に抑えつける。床を蹴る力さえ湧かず、ただ彼が怒りに任せて追ってこないことを願った。


フリードリヒのめちゃくちゃな言葉が、まだ耳に残っている。

理屈なんて、どうでもよかった。

あれが本音だったのか、それとも——


苦痛に顔を歪め、鋭い言葉で彼女を突き放し、あまつさえ彼女の恋心さえも否定したあの姿。そのすべてが、リーリエの自尊心を容赦なく削り取った。彼の内に巣食う得体の知れない「黒」も、腰に回された強引な手の感触も、ただただ恐ろしかった。


けれど、足がすくんで動けない理由は、恐怖だけではない。


「――誓約書」


唇が、音もなくその言葉をなぞる。


脳裏に焼き付いたその文言は、あまりに熱烈で、まるで心臓を直接射抜くような恋文のようだった。


見てはいけない、彼の魂の深淵を覗き込むような背徳の行為。


けれど。


(……嬉しい、と思ってしまった)


その卑怯なまでの悦びが、リーリエの罪悪感をさらに深く抉った。


フリードリヒ。


孵化したばかりの雛鳥が、初めて見たものを親と信じて疑わないように。


リーリエにとっての「太陽」は、幼いあの日からずっと彼だった。


あまりに遠い場所にいる彼ばかりを追いかけ、見上げ続けてきたから。自分でも境界線が引けなくなっていただけなのだ。そう自分に言い聞かせ、心の折り合いをつけてきたはずだった。


ノクスへの自分の愛を、たしかに感じたはずだった。


彼と過ごす時間は穏やかで、あたたかくて、大切だった。


それなのに。


あの誓約書を読んだ瞬間、リーリエの世界からノクスが消えた。


冷酷に自分を射抜くあの金の瞳に見つめられたら、もう、逸らすことすら叶わない。


ノクスに感じるあたたかさはない。


もっと、泥濘のように昏く、呼吸を止めるほどに苦しい――。


つらい。


溢れ出しそうな感情を押し殺すように、両手で口元を覆う。


指先さえも、小刻みに震えて止まらない。


視界が涙で歪み、自分が今どこに立っているのかさえ判然としなかった。そこが、ビアンカの部屋の前だということに気づく余裕など、今の彼女にはなかった。


ノクスを傷つけたくない。彼には、ただ純粋な優しさだけを返したい。


それなのに、あの一瞬、彼を忘れた自分を許せなかった。


縋るように頭を抱え、蹲りそうになったその時。


――カチャリ。


無機質な金属音が、静まり返った廊下に響いた。


心臓が跳ね上がる。リーリエは、悲鳴を上げることさえ忘れて硬直した。


扉の隙間から現れたのは、ノクスだった。

目の前の黒い瞳に、リーリエは目を奪われる。

リーリエの中の黒い魔力が、彼に流れ込む。

気持ちが良くて、一瞬心が凪ぐ。


リーリエが息を吸い込むわずかな間に、扉は再び静かに閉ざされた。

廊下にビアンカの甘い香水と白い魔力がふわりと漂った。


ノクスはリーリエに気づくことなく、再び部屋の奥へと消えていった。


リーリエはその場から動けなかった。

網膜に焼き付いたのは、彼の口元。

見間違いであってほしかった。そこに引かれていた鮮やかな「赤」。


激しく、口付けを交わしたことを物語るように伸びていた。


(ビアンカ様と、キスを……?)


そして彼は、一度は外に出ようとしながら、また彼女の元へと戻っていった。


その瞬間、身勝手な思考が頭をよぎる。


――彼にも、自分と同じような「一瞬」があったのではないか。


そう思うと、彼を失うことが底知れぬ恐怖となって押し寄せ、瞬きをすることさえ恐ろしくなった。


扉の向こうからは、何も聞こえない。


今、この瞬間も、あの壁の向こう側でノクスが自分のことなど忘れているのだとしたら。

だから、黒い魔力を我慢せず吸い込んでいるのではないか。


そう考えただけで、いてもたってもいられなくなった。


知らない。こんな自分は知らない。


リーリエは逃げるように走り出した。スヴァルトハイムの馬車へ。


自分が消えてしまいそうな恐怖から逃れるために。


揺れる馬車の中、リーリエはスヴァルトハイムの印章を取りに行く約束を思い出した。

森の別宅に持っていくという、彼との約束。

でも。

乾いた笑いが、零れた。

こんな気持ちのままでは森の別宅には―――


「……帰れない」


いつの間にかローブの裾を握ってクシャクシャにしてしまっていた。

手持ち無沙汰なのだ。

いつも持っていた魔導書を、フリードリヒの所に置いてきたから。

彼のあの金の瞳。誓約書。

不意に何度も思い出してしまう。


窓の外に流れる街並みを見る。


パレードの喧騒は遠のき、沿道の人はまばらで、世界は穏やかな日常へと戻ろうとしている。


(別の世界に来たみたい…)


リーリエの頬を伝った涙は、誰に知られることもなく、重厚なローブへ音もなく染み込んで消えた。

リーリエは自分を抱きしめた。

胸の奥が渇いてノクスが恋しい。

会っても、渇きがなくなる訳でもないのに。



疲れた。


眠ってしまいたいけれど、きっとまたあの夢を見てしまう。

いつものあの、幸せな夢。


ノクスが優しく「赦す」と言う。「愛しい」と言う。そんな夢。

リーリエはまどろみながら眉間に皺を寄せた。

愛しいは、まだ分かる。

でも―――赦す、は。


「意味がわからないわ」


リーリエは目を閉じて、少しだけ眠った。



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