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王城の回廊は、凱旋の喧騒が嘘のように静まり返っていた。冷え切った石造りの壁が、リーリエの足音を鋭く跳ね返す。


フリードリヒがあの鈴を鳴らせば、彼女はどこの扉を叩いてもフリードリヒの私室へ繋がる「扉」となるのに、彼女はあえてそれを使わなかった。


脳裏をよぎるのは、出立の日の光景。言い訳すら許さず自分を突き飛ばした彼の、容赦のない腕の力。温度を失った金の瞳。

その感触が肌にこびりついて離れず、重い足取りで一歩ずつ、逃げ場のない廊下を進むしかなかった。


角を曲がった瞬間、リーリエの心臓が跳ねた。

フリードリヒの自室から、聖女ビアンカが出てきたところだった。

すれ違いざま、ビアンカが立ち止まる。刺すような沈黙の中、彼女の声が鼓膜を撫でた。


「スヴァルトハイム様、ごきげんよう」


「……ごきげんよう、ビアンカ様。陛下の傍でお支えくださったこと、エルディフィア王国の一人として深く感謝申し上げます」


リーリエは深々と、完璧な動作でカーテシーをした。伏せた視線の先で、ビアンカの贅沢なドレスの裾が揺れる。ビアンカは艶やかな唇を吊り上げた。


「当然の務めです。でも、感謝してくださるのなら……一つ、私のわがままを聞いていただけるかしら?」


リーリエの背筋に冷たいものが走る。拒否権など最初から存在しない。


「なんでしょう」


「明日、魔法塔にあるという『天空資料室』へ案内してほしいの。フリッツが言っていたわ。この国で一番の魔法使いが設えた、王都で最も眺めの良い場所なんですって」


フリッツ。その親密な呼び名が、毒のようにリーリエの胸に回る。


「……承知いたしました」


「楽しみにしておりますわね」


勝ち誇ったような笑みを残し、ビアンカは去っていった。なぜ彼女がそこを望むのか。不穏な予感に思考が支配されそうになるのを振り切り、リーリエは傍らの騎士に入室を求めた。


「入れ」


短く、重厚な声。

扉の先で待っていたフリードリヒは、驚くほど「完璧」な状態だった。

長旅の疲れなど微塵も感じさせない。白金の髪は月光のように艶めき、肌には瑞々しい生気が宿っている。何より、その金の瞳が理性的で、あまりにも静かであることが恐ろしかった。

だが、リーリエの目は、彼の左手首に釘付けになった。


(……嘘)


そこには、彼女が徹夜して編み上げた、最高位の防護魔道具があった。


「おかえりなさいませ。ご無事で、何よりです」


「王都の守護、大儀であったな」


その労いは、あまりに平坦だった。出発前、自分を床に叩きつけ「失せろ」と言い放った冷酷な男と、今目の前にいる男。どちらが本物なのか。リーリエの指先が小刻みに震える。


「陛下、その、左手の……」


「堅苦しい呼び方はよせと言っただろう」


「……フリッツ。そのブレスレット、どうして?」


思わず問い詰める声が尖る。部屋から、そして彼の中から、不自然なほど白い魔力が消えていくのが見える。


「これか? ビアンカが持っていた魔道具だ。これのおかげで命を拾った。彼女には感謝してもしきれん」


朗らかに笑うフリードリヒ。リーリエは眩暈を覚えた。なるほど。あの時、ビアンカの部屋に置き忘れた箱を、彼女は自分の物として彼に渡したのか。


「それを、返して」


「なんだと?」


「それは欠陥品よ。すごく危ないわ。今すぐ返してちょうだい」


フリードリヒの眉が不快げに寄った。彼は今、このブレスレットのおかげでかつてないほど体調が良い。だが、リーリエが魔法に関して嘘をつかないことも知っていた。


「……ほら」


彼がは腕をこちらに向けた。

外せという意味かと思い、リーリエが手を伸ばした瞬間――。

強引に手首を掴まれたのは、リーリエの方だった。


「お前、私に何か言うことがあったはずだろう?」


心臓が早鐘を打つ。ノクスのことだ。

リーリエは頬を染め、気恥しさに視線を逸らした。

その反応を、フリードリヒは自分への「恋」だと断じた。出立の記憶はひどく曖昧で、今の彼の中でリーリエは、未だ従順な小さき魔法使いだった。

歪んだ愉悦と苛立ちが彼の瞳の奥でせめぎ合う。

リーリエは小さく息を吐き、意志の強い瞳をフリードリヒに向けた。


「私」


彼女の瞳にフリードリヒの胸は高鳴った。

凱旋してすぐ、妖精公爵の心が聞けるとは。


「……結婚します」


「…………は?」


「ノクスと、成人したらすぐに」


一瞬の静寂。

動かないフリードリヒに、リーリエは戸惑った。

次の瞬間、フリードリヒは低く笑った。そして、驚くリーリエの手を骨がきしむほど強く握る。


「痛っ……!」


悲鳴を無視して、彼はその腕を自分の方へ引き寄せた。リーリエは思わずフリードリヒの肩に手をかける。

フリードリヒは笑顔を貼り付けたまま、吐息がかかる距離までリーリエに顔を近づける。その金の瞳は、燃えるような怒りに支配されていた。


「冗談も大概にしろ」


突き放すような衝撃。リーリエは体勢を崩し、冷たい床に倒れ込んだ。


(どうしよう、魔力が……!)


ブレスレットの使い方を知らないのだ。

視界の端で、フリードリヒの体内から恐ろしい勢いで魔力が枯渇していくのがわかる。今の彼に懇願してもきっと聞き入れられない。説明する暇もない。


リーリエは弾かれたように立ち上がり、魔導書を広げた。

万が一に備えて昨日描いておいたのだ。

リーリエは黒の魔法陣に魔力を流す。


フリードリヒの手首からブレスレットが吸い込まれるように抜け、魔法陣の中へ消えた。


良かった。間に合った。


リーリエは思わず魔導書を抱きしめ深く息を吐いた。直後、フリードリヒが胸を押さえて膝をついた。


「ぐうっ……! 何をした……リリ、貴様、私に何を……!」


絶句するリーリエの瞳に映ったのは、彼の中に渦巻く、どろりとした漆黒の魔力だった。

「嘆きの沼」で一体何があったのか。その闇の深さに足がすくむ。


「陛下…」


リーリエの呼びかけにフリードリヒは奥歯を噛む。


「リリ……それを……返せ!」


荒い呼吸。滲む汗。青ざめた顔で、彼はリーリエの肩を掴み、魔導書を奪おうと迫る。


「だめ……あれは危険で、返せないの……」


固辞するリーリエの言葉に、彼の呼吸がふと、静まった。

それが、真の怒りの兆しであることに彼女は気づかない。


「おい……いい加減にしろ」


氷よりも冷たい声。


「私がなびかないからといって、あてつけにこんな小賢しい真似を……。 私の許可なしに結婚できるとはお前も思っていないくせに。私の気を引くために、よくもここまで小癪な真似をしてくれる……!」


「何を、言っているの……?」


困惑する彼女の腰を強引に引き寄せ、顎を乱暴に掴み上げる。


「お前の望みを、叶えてやると言っているのだ!」


唇を寄せるフリードリヒ。

彼の中の「黒い何か」。魔力ではない、悍ましい闇。


「嫌っ!」


生理的な恐怖に突き動かされ、リーリエは手に持った魔導書を振り上げていた。

鈍い音を立てて、魔導書がフリードリヒの側頭部を叩く。

力が抜け、彼は床に崩れ落ちた。魔導書がその傍らに転がる。

リーリエは肩で荒い息をした。

フリードリヒに手を挙げてしまった自分が信じられなくて、彼女はただフリードリヒを見ていた。


フリードリヒは呪わしげにリーリエを睨みつけたが、鼻で笑い、落ちた本を引っ掴んだ。


「どこだ、どこに隠した……!」


狂ったようにページをめくる。だが、彼に見えるのはただの白紙だった。


「やめて、迂闊に触らないで……!強く思い浮かべれば出てくるから落ち着いて!」


リーリエの制止も虚しく、指を滑らせたフリードリヒが「痛っ」と声を漏らした。

本の端で、指を切ったのだ。

鮮血がページに吸い込まれていく。その瞬間、リーリエの背筋が凍りついた。

血を媒介に、「誓約の魔法陣」が発動した。


「おい……これは、何だ。私とリリの名前が……」


開かれたページに、浮かび上がる文字。

そこにあるのは、リーリエが書き込んだ呪いのような文言だった。

フリードリヒの目には名前しか映らない。


それは、彼女が直接触れるまで、誓約文が黒い魔力でしか綴られない「反転の誓約」の魔法陣。


リーリエは瞠目した。



『リーリエ・スヴァルトハイム様


私はお前を信じない

守らない

愛さない


どうか私の目の届かない遠くへ消えてくれ


私を疑え

私を憎め


お前の不幸を、心から願っている


――フリードリヒ・リューン』



突き刺さるような拒絶の言葉。

だが、リーリエは口を覆ったまま、震えが止まらなかった。


これは「反転の誓約書」。


魔導書をリーリエから奪おうとした者が触れた時、リーリエに対する心を真逆の言葉で書き出す魔法陣。

この魔導書を奪おうとした者は皆、リーリエへの憎悪に満ちていた。


だが、フリードリヒは――。


リーリエの瞳には見えていた。彼の、真実の心の声が。



『リーリエ・スヴァルトハイム様


私はお前を信じている

守りたい

愛している


どうか私の目の届く場所にずっといてくれ


私を信じてほしい

私を愛してほしい


お前の幸せを、誰よりも祈っている


――フリードリヒ・リューン』


……いけない。

見てはいけないものを見てしまった。


言葉のひとつひとつから溢れ出す、狂おしいほどの慈しみ。

フリードリヒの怪訝そうな顔の奥で、魂が泣いているのがわかってしまった。

リーリエの青い瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。


「おい……何を泣いている」


その声に、リーリエははっとした。


(隠さなきゃ。私がこれを知ったことを、誰にも、彼自身にも知られてはいけない)


リーリエは涙を拭い、急いで扉へ向かった。


「また、話し合いましょう。今は……少し休んで」


魔導書を置いたまま、リーリエは逃げるように部屋を飛び出した。

一人残されたフリードリヒは、彼女が去った途端、胸の激痛が嘘のように消えたことに気づいた。


「……ふん。やはり、私に苦痛を与える魔法をかけていたか」


吐き捨てた言葉とは裏腹に、彼は不器用に魔導書を手に取る。

自分を拒絶し、別の男との結婚を口にした少女。

指先の傷が、いつまでも熱を帯びて疼いていた。


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