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それから数日たった朝、リーリエは鏡の前で珍しく入念に髪を編んでいた。
「どうしたの?気合いが入ってるね」
朝食に寝坊したノクスが「おはよう」と言いながら、のそのそとリーリエに近寄って頬にキスをした。
ノクスが勝手に日課にしているキスだ。
リーリエは毎日赤くなる。それが可愛くてやめられないのが本音だ。
「…おはよう。今日遠征軍が帰ってくるのよ」
ノクスはハッとした。フリードリヒの事など忘れていた。
以前ノクスが凱旋パレードを見に行く話を断ったから、リーリエは今までその話題を避けていた。
「そ、それでおめかししてるの?」
わなわなと震える声が出るノクスに「そうよ」と返す。
「ノクスは会ったこと無かったわよね。エドガー様達が帰ってくるのよ」
知らない男の名前が恋人の口から出てきた。
嬉しそうに「お変わりないかしら」なんていいながら、髪にピンをさす。
「エドガー、様?」
「そう。建国前にすごくお世話になった騎士様よ。建国の英雄なんだから」
「建国の英雄って、リールヒェンだけじゃなかったんだ」
動揺を隠すようにノクスは言う。恋人がいちいち動揺していては、リーリエに失礼だと自分を励ました。
「私は後方支援のおまけよ。戦場を駆け抜ける姿が本当にカッコ良かったのよ。
私の事を娘みたいに可愛がってくれた素敵なおじ様なんだから」
リーリエはかつての戦友を褒めちぎるが、ノクスにはたった一言しか響いていなかった。
おじ様。
その言葉にノクスはやっと肩の力が抜けた。他にも名前が沢山出てきたけれど、ノクスはもう驚かなかった。どの男も戦場でリーリエを守ってくれたのだ。ノクスにとっても恩人のようなものだ。
しかし、牽制するに越したことはない。
「俺も挨拶したいな」
「多分落ち着いたら来てくれると思うけれど。そうね、成人のお披露目会の時に会えばいいわ」
「成人?」
なんとはなしにノクスは聞く。
「そう、私はもうすぐ大人。議会にも出られるし、自分の意思で結婚だってできるの」
出来ることが増えて嬉しいわ。そう言って自慢げに笑うリーリエに、ノクスは驚いた。
「結婚?」
その言葉だけ、やけに胸に響いた。
リーリエは黒い瞳を煌めかせるノクスに笑って尋ねた。
「する?結婚」
「する!」
即答だった。…けれど。
「でも、フリードリヒが許さないんじゃない?」
リーリエは公爵家当主。自分は世界を渡ってきた身分も過去もない男だ。平民と同じ。
国王であるフリードリヒが首を縦に振るとは思えない。
しかし、リーリエの青い瞳に不安の影はなかった。
「ふふん、いまはフリッツが後見人だけれど、成人になれば使える書類があるのよ」
そう言って、引き出しから羊皮紙を取り出した。
「これよ」
差し出され、ノクスは受け取った。
そこには、王家の印章が入っていた。
『スヴァルトハイム家の縁者となる者は、本人、スヴァルトハイム家当主、リーリエ・スヴァルトハイムの三者のサインによって正当なものと認める』
それは、魔法塔が建てられた頃にフリードリヒからもらった書類。
フリードリヒが「結婚はリリの好きにすればいい」と言って一筆書いたものだ。当時フリードリヒに恋心を抱いていたリーリエからすれば、これは言わば「敗戦の書」。しかし、今となってはノクスとの結婚を約束する「勝利の書」なのだ。
ノクスは顔を上げた。リーリエの瞳をまっすぐ見つめたまま、胸に手を当て、リーリエに跪く。
「結婚してください」
彼女の前に手を差し出すノクスの口からこぼれた本音に、リーリエは「成人したらね」と、手を添えて微笑んだ。
どちらともなく体を寄せ、キスをする。
「誰にも取られたくない」
うわ言のようにノクスが囁く。
「誰も取らないわ」
笑いながら言うリーリエに不安が募る。
彼女は脇が甘い。いや、脇ががら空きなのだ。
ノクスはリーリエの首に唇を沿わせた。
「ひゃっ!?」
びっくりして距離をとるリーリエに、ノクスは意地悪そうに笑った。
「誰にも、取られたくないからね」
言っていることが分からず鏡を見ると、赤いアザのようなものが首筋に付いている。
跡をつけられた事に気づいて真っ赤になるリーリエを後ろから抱きしめ、ノクスはうなじにも同じものをつけた。
「ちょ!ちょっと!」
振り返り、ノクスの口を両手で押さえる。
今から凱旋パレードを見に行くのに。
戦友たちと一年ぶりに会うのに。
「ふしだらな女になっちゃったわ」
「まだ何もしてないけど」
「今したじゃない」
顔を手で覆って嘆くリーリエの髪を、ノクスは笑って優しく解いた。
「ほら、これで見えなくなった」
いつものように髪を下ろしたリーリエが鏡に映る。
「…心配だわ」
念の為太めのチョーカーを装着し、不満げな顔をして「行ってきます」とリーリエは言った。
「行ってらっしゃい」
意地悪しすぎたことを少し後悔し、手を振るノクス。
「あ、魔導書」
ノクスは魔導書に触れようとして手を止めた。うっかり魔法陣を消してしまってはまたリーリエが泣いてしまう。
リーリエは玄関で立ち止まると、走って戻った。魔導書をとらず、そのままままノクスの胸に飛び込む。
そして驚くノクスの、だらしなくボタンを開けていたその薄い胸板に吸い付いた。
ノクスがビクリと体を震わせた。リーリエは彼から離れ、ふふっと笑う。
「私もノイを取られたくないわ」
ノイ。
それはリーリエが初めて口にするノクスの愛称だった。
「帰りにスヴァルトハイムの印章取ってくるわね」
意地悪そうに青い瞳を細め、リーリエは魔導書を持って出かけて行った。
ノクスはズルズルと床にへたり込んだ。
「リールヒェン…」
彼の胸には、リーリエの首と同じ跡が付いた。




