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森の奥にひっそりと佇む別宅は、外界から切り離されたような静けさに包まれていた。
木々の隙間から差し込む光が床にまだらな影を落とし、風が葉を揺らすたび、柔らかなざわめきが室内へと流れ込む。
フリードリヒが掃討作戦に出発してすぐ。
ノクスとリーリエは、その場所へ移り住んだ。
屋敷の内外には、複雑な魔法陣が幾重にも描かれている。
リーリエが丹念に組み上げたそれらは、黒い魔力に反応する仕掛けだった。例えばノクスが吸いすぎると、その量によって様々な影法師が出てくる。そんな可愛らしい仕掛けだ。
「どうせなら、楽しくしたいものね」
そう言って微笑むリーリエの顔色は、決して良いとは言えなかった。
長時間の魔力操作のせいだと、見れば分かる。
ノクスは言葉もなく彼女を抱き寄せた。
「無理しないで。俺のために頑張りすぎだよ」
低くそう言うと、リーリエは彼の胸の中で小さく笑った。
「私のためよ」
顔を上げて、真っ直ぐに見つめる。
「私の心を知るために、あなたに頑張ってもらうの。だから、私も頑張るのよ」
その言葉に、ノクスの胸は静かに満たされた。
「……じゃあ俺も、好きになってもらえるように頑張る」
「ふふ……そんなに抱きしめられたら、好きになっちゃうわ」
軽くからかうような声だったが、ノクスが真っ赤になったのを見て、リーリエはくすりと笑った。
それ以上は言わなかった。
その代わり、ただ少しだけ、彼に体を預けた。
―――
二人きりの生活は、驚くほど穏やかだった。
朝の光に目を覚まし、他愛のない言葉を交わし、同じ時間を過ごす。
それだけで満たされる日々が、静かに積み重なっていく。
特訓の成果は目に見えて出た。ノクスが吸い込む黒い魔力の量が、次第に減っていった。
「筋がいいのね」「教え方が上手いから」などと褒めあったり、逆に自慢しあったりした。
けれど、その穏やかさの裏で、彼の胸には焦りがあった。
いつフリードリヒが帰還するか分からない。
完全に制御できるわけではない今の状態では、まだ足りないかもしれない。しかし、リーリエの様子を思い出す。
穏やかな表情。恥ずかしそうに俯く仕草。ノクスの服の裾を掴む、控えめな甘え。
どれも可愛くてノクスは鮮明に思い出そうと目を閉じた。
気持ちが緩んで壁の魔法陣から花びらの影法師が舞った。
彼女の生気に満ちた瞳は、今まで自分の手を引いた奴らとは違う。
あれはきっと。そう願ってしまう。
まだ時間はあるのかもしれない。
それでも――今夜、想いを伝えると決めていた。
―――
その夜。
魔法塔から戻ったリーリエは、扉を開けるなり、何も言わずにノクスへ抱きついた。
「……どうしたの?」
戸惑いながら問いかけると、彼女は顔を伏せたまま、震える声で言った。
「フリッツが……帰ってくるの」
その言葉に、ノクスの胸が一瞬で冷えた。
「瀕死の怪我だったけど……ビアンカに治してもらったんですって」
「……そんな力、あの人にあったの?」
思わずそう呟きかけて、言葉を飲み込む。
リーリエは小さく笑った。
「奇跡ね」
その笑顔を見て、ノクスは何も言わなかった。
誰の功績であれ、彼女が安心しているなら、それでいい。
だが――
(この後で告白するのは、さすがに分が悪いな)
そう思いかけた時だった。
腕の中のリーリエが、わずかに身じろぎした。
離れる気配はない。
「……ねえ、ノクス」
「ん?」
「あなた、ずいぶん黒い魔力を抑えられるようになったわね」
「ああ……リリのおかげだよ」
そう答えると、リーリエは彼の胸元で小さく息を吸った。
「……情けない話をしてもいいかしら」
少し迷うような声。
ノクスは黙って頷いた。
「今日、塔で聞いたの。ある方が……伴侶ができたって」
ゆっくりと言葉を選びながら続ける。
「毎日会って、お話して……それだけで嬉しいんですって。夜“おやすみ”って言って、朝になって“おはよう”って言って……そんな幸せ、他にないんですって」
ノクスは何も言わずに聞いていた。
「それでね。お仕事で離れている時、その人はね、思い出すのですって。昨日の驚いた顔とか。笑いあった事とか。それで心が温かくなって。胸のあたりがくすぐったくて笑顔になるのですって」
リーリエは、少しだけ顔を上げる。
頬を赤く染めながら、けれど真っ直ぐに。
「……私、あなたに同じことを思っていたの」
静かな告白だった。
ノクスの鼓動が期待に揺れる。
それって。
「それって……恋じゃないかしら」
ノクスの心を引き継ぐように、リーリエが言った。
その瞬間、ノクスの視界が滲んだ。
「……泣かないで」
リーリエの細い指が、ノクスの涙をひと雫すくった。
「……君が気づく前に、言いたかった」
そう言って抱きしめると、リーリエはくすりと笑った。
「おバカさんね。結果は同じなのよ」
まるで実験結果を述べるような口調に、ノクスは思わず笑ってしまう。
それに、やっぱりあたたかい。
ノクスといると、春のひだまりの中にいるようで、心地がいい。
リーリエはノクスを見つめて愛しそうに目を細めた。
ノクスはそれを、熱に浮かされたような潤んだ瞳で見つめ返した。
互いの想いを確かめたその瞬間、二人は恋人になった。
その夜。
別宅の外に出て、二人は並んで空を見上げた。
星が、静かに瞬いている。
「……俺、今日の星空、きっと忘れない」
「私も、きっと忘れないわ」
言ってから、どちらともなく照れて笑う。
「明日の青空も、きっと死ぬまで忘れない」
ノクスの言葉に、返事が来ない。
ノクスはリーリエの顔を覗き込んだ。
彼女は少しばかり言い淀んだ。けれど、ノクスの手を握ると、罪を告白するように口を開いた。
「……私は、青空を知らないの」
静かな声だった。
「私だけ、黒い魔力が見えるでしょう?だから……空はずっと灰色なの」
ノクスは言葉を失った。
「ビアンカ様の魔力で満たされた場所でも、見えなかった。青い空なんて……お話の中の色だわ」
思わず、彼は彼女を抱きしめた。
いつか、リーリエが「黒い魔力が見える人」を探していると言っていた。同じ景色が見える人を夢に見ていると。
ノクスはそれを甘く見ていた。
彼女は正しく闇の中の孤独にいたのだ。
リーリエは抵抗せず、その胸に顔を埋める。
温もりが、じんわりと広がった。
「……じゃあさ」
ノクスは、少し考えるように言う。
「俺が黒い魔力を全部吸ったら、見えるんじゃない?」
リーリエが顔を上げた。
「明日、やってみようよ」
驚いたように目を見開き、すぐに首を振る。
「だめよ。そんなことしたら……王都中の人の魔力が空っぽになっちゃうわ」
「別にいいよ」
さらりと言う。
「君が見えるなら、それでいい」
リーリエの顔が一気に赤くなる。
「だ、だめよ!本当にだめ!」
慌てて手を振る彼女に、ノクスは少しだけ笑った。彼女の指の間にするりと指を差し入れ、キュッと握った。
「……そんなにだめ?」
君のためなら何でもするのに。
恋に浮かされたノクスが、とろりとした瞳をリーリエに向ける。
彼女は困ったように目を背けた。
「だって……魔法塔だって壊れちゃうわ」
その言葉に、ノクスはわずかに表情を曇らせた。
リーリエにとって、大切な場所。
そして――フリードリヒから与えられたもの。
彼はほんの少しだけ、不機嫌な顔になる。
それを見て、リーリエはふっと笑った。
不意に背伸びをして――彼の頬に口づけた。
ノクスが驚いて振り向くと、リーリエ自身も真っ赤になっている。
「……私の大切な場所なの」
小さな声だった。
それだけで十分だった。
ノクスはそっと、彼女の唇に触れる。
ほんの短い、優しい口づけ。
リーリエは驚いて口元を押さえた。
その仕草さえ愛しくて、ノクスはもう一度彼女を抱きしめる。
おずおずと、けれど確かに返される腕。
その温もりが、夢のように優しかった。
彼が求めていたもの。
彼女が手に入れたかったもの。
それは、ようやく同じ形を持ち始めていた。




