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魔導書の誓約書を難しい顔で読んでいたリーリエは、思い至ったように言った。
「そうだ」
首を傾げるシュトラウスに、リーリエは人差し指を立ててみせた。
「一つ、取引をしませんか?」
侯爵の喉が鳴る。
「……取引?」
「ええ」
あまりにも軽い調子だった。
「次の会議で、陛下が議題を出します」
侯爵の瞳が揺れる。
「その時」
リーリエは淡々と言った。
「異議を唱えず、静かにしていてください」
沈黙。
罠か。
いや――
彼女は取引と言った。
自分は反対派閥の筆頭。
黙れば議題は簡単に通るだろう。
しかし。
「……断ったら?」
リーリエは即答した。
「何も起きません」
指先で契約のページを撫でる。
「この契約のままです」
侯爵のこめかみを嫌な汗が伝う。
「受ければ?」
「一部、消してあげます」
リーリエは本をシュトラウスの前に置いた。
呼吸が止まる。
契約の一部を。
無効に。
いや、これこそ罠であるかもしれない。
「何故だ。貴殿に得がないだろう」
これだけ強い誓約書を作れるのだ。命令する方が利があるように思うが。
「そうですね。こんなギチギチな誓約書ができると思わなかったので。さすがに良心が痛みました」
シュトラウスは訝しんだ。さっきから、誰かが勝手にやったような口ぶりだ。
とはいえ。
リーリエの気が変わらないうちにシュトラウスは視線を本に落とす。
決まっている。
侯爵は言った。
「……ここだ」
震える指が一文を指す。
『貴方に対して秘密を作らず』
「それを消してくれ」
リーリエは瞬きをした。
「これでいいんですか?」
侯爵は奥歯を噛んだ。
貴族が秘密を持てないなど、死ねと言われているのと同じだ。
リーリエはしばらく彼を見ていた。
やがて。
「いいですよ」
あっさり言った。
指先で文章をなぞる。
赤い文字が霧のように薄れ、消えた。
契約文が変わる。
「ではこの誓約でまとめますね」
そう言って、リーリエは自分の名前の脇に指を押し当てた。彼女の指紋が浮き上がり、誓約は成った。
侯爵の膝から力が抜けた。
「……あ」
息が漏れる。
助かった。
まだ戦える。
そう思った瞬間。
リーリエが言った。
「では約束ですよ」
声は柔らかい。
薄桃色の口に、人差し指。
「次の会議では、くれぐれも、静かに」
侯爵は頷いた。
頷くしかなかった。
リーリエは満足そうに本を閉じる。
ふと、リーリエは悲しい顔をした。
侯爵は思わず口を開くが、言葉が出る前に少女はカーテシーをした。
「では、失礼いたします」
後にはひび割れたガラスの窓と、火の消えた暖炉の前で呆然と跪くシュトラウス侯爵だけが残った。




