5
シュトラウス邸の二階へ続く廊下は、もはや人の住む場所ではなかった。
女の絶叫が地鳴りのように轟き、壁を震わせ、額縁を叩き落とし、花瓶を割っていた。
耳をつんざく悲鳴にリーリエは閉口した。
シュトラウス侯爵は肩を震わせながら歩いていた。
断頭台へ引かれる罪人の足取りだった。
リーリエの足取りだけが軽やかだった。
「ここだ……ここだ、止めてくれ……!」
執務室の扉を押し開ける。
暖炉が燃え盛っていた。
薪が爆ぜ、炎が立ち上がる。
「そこだ……!」
侯爵の指が震えながら暖炉を指す。
リーリエは答えない。
ただ歩く。
灼熱の炎の前で立ち止まり、薄桃色の唇に人差し指を当てた。
深く息を吸う。
絶叫が――
「しぃ」
それで全ては済んだ。
悲鳴が消える。
炎が消える。
目を見開いたシュトラウスには耳鳴だけが残った。
リーリエは火かき棒を取り、薪を分け、本を拾い上げた。
灰を払う。
それだけで本は新品の光沢を取り戻した。
焦げ跡ひとつない。
リーリエが大事そうに本を抱きしめる。
シュトラウスはわなわなと震える指で本を指した。
「なんなんだ……それは」
声が掠れる。
「貴様は……その本は、何なんだ」
床に崩れ落ちる。
リーリエは首を傾げた。
「魔導書って呼ばれてますね」
「誤魔化すな!!」
思わず怒鳴った。
「何も書かれていないではないか!
めくってもめくっても白紙の、ただの雑記帳だ!」
リーリエは小さく息を吐く。
浮かぶのは諦めのような、あるいは失望のような顔。
その顔の意味を、シュトラウスは判じかねた。
「……私を、どうするつもりだ」
死刑宣告を待つ声だった。
理解してしまったのだ。
この少女は、山を穿ち国を拓く魔法使い。
その気になれば、自分一人消すなど、塵を払うより容易い。
シュトラウスの方に、魔導書を携えてリーリエが歩を進める。
シュトラウスは思わず目を閉じる。
震えながら、繰り出されるであろう衝撃を待つ。
パラ。パラパラ。
頭上で頁がめくれる音。
「これですね」
事務的な声。
恐る恐る目を開く。
差し出されていたのは一枚の頁だった。
左上に。
――リーリエ・スヴァルトハイム
右下に。
――アルベルト・フォン・シュトラウス
「……は?」
意味が理解できない。
「あれ、まだ出てないな」
リーリエの指先が中央の余白を撫でる。
白紙に赤い滲みが浮かぶ。
インクが染み出すように広がり、文字になる。
『リーリエ・スヴァルトハイム様
私は金輪際、貴方から物を奪わず、尊厳を奪わず、大切な者を奪いません。
貴方に対して秘密を作らず、あなたの秘密を漏らしません。
アルベルト・フォン・シュトラウス』
喉の奥が恐怖で詰まる。
「……なんだ、この馬鹿げた誓約書は……」
掠れた声で血走った目で、シュトラウスは本を見た。
血だ。血で自分の名が刻まれている。
信じられない。それは確かな誓約書だった。
「あなたが決めた誓約書ですよ」
静かな声。
「私が、決めた?」
得体のしれなさに侯爵の背筋に冷たいものが伝う。
「これで」
リーリエが本を閉じる。
「私の本を勝手に持って行った件は、許してあげます」
彼女は微笑む。
シュトラウスは、リーリエの言葉を半分も理解できなかった。
「馬鹿馬鹿しい。サインすると思うのか?」
「これはあなたが書いた誓約書。サインは私がするんです。魔法使いと契約を結んだ経験は?」
ない。あるわけが無い。
契約不履行すれば魂が焼けるという噂だ。
彼は確信した。
これは、この女の慣れた手口なのだ。
盗ませるのだ。
敵に。
わざと。
謝罪でも罰でもない。
狙いは契約だ。
思い至って乾いた笑いが出る。
戦争。建国。この手口で敵を黙らせてきたのだな。
成程、公爵位。この小娘に爵位を与えてまで王が離さない理由が分かった。
「魔女め」
項垂れたシュトラウスの口から悪態が出た。




