57
戦況は、明らかに鈍っていた。
フリードリヒが率いる騎士団は、選び抜かれた精鋭のはずだった。だがその動きはどこか重い。踏み込みが遅れ、回避もわずかに甘い。決定的な一撃に至らない。
――攻めきれない。避けきれない。
その違和感に、エドガーはすぐ気づいた。
これは、一年前に自分たちが味わった感覚だ。
魔法使いの援護がない戦場。
視界が狭まり、身体が鉛のように重くなる。判断が遅れ、連携が噛み合わない。たったそれだけの差が、戦場では致命的になる。
舌打ちしたい衝動を抑えながら、エドガーは前線を駆けた。
遠方では、フリードリヒが氷の矢を放っている。狙いは正確だ。射抜かれた魔物が次々と沈む。
だが――その動きは、やはりどこか鈍い。
その背に、ビアンカがしがみついていた。振り落とされまいと必死に腕を回し、彼に身体を預けている。
(あれで魔力供給のつもりか……?)
エドガーは眉をひそめた。
確かに、フリードリヒの魔法は強力だ。だが、本人の身体能力が追いついていない。戦場でそれは致命的だ。
視線だけで二人を追いながら、エドガーは周囲の魔物を斬り伏せていく。
そのときだった。
ぬかるんだ地面が大きく跳ね、投げつけられたような衝撃が馬を襲う。
フリードリヒの身体が揺らぐ。
「っ――」
とっさに、彼はビアンカを抱き寄せた。
次の瞬間、二人は馬上から地へと飛び降りていた。
「陛下!」
思わず叫ぶ。
だがフリードリヒは振り返らない。
「構うな、進め! 外縁は制圧済みだ、怯むな!」
その声は鋭く、まだ王としての威圧を保っていた。
エドガーは歯を食いしばり、前へ出ようとする。
その足元で、泥が爆ぜた。
黒い影が跳ね上がる。
巨大なカラスのような魔物だった。泥に塗れた羽を広げ、濁った目でエドガーに襲いかかる。
視界いっぱいに迫る黒。
だがエドガーは一歩も退かなかった。
剣を振り上げる。
脳裏に、軽やかな声がよぎる。
『よく斬れるおまじないです』
――あの小さな魔法使いが、剣に仕込んだもの。
一年前から、一度も錆びていない。
振り下ろす。
手応えは、ほとんどなかった。
するり、と。
紙を裂くように、魔物の羽が断ち切られる。
そのまま返す刃で、首を落とす。
巨体が沼へと沈み、泥が激しく跳ねた。
顔にかかる泥を乱暴に拭う。
その一瞬。
「陛下!!」
女の悲鳴が響いた。
エドガーは弾かれたように顔を上げる。
視界の先。
ビアンカを庇い、地に倒れ伏すフリードリヒの姿があった。
「――ッ!」
血が逆流する。
「陛下!」
地を蹴る。
あんな女のために、陛下が死ぬなど――あり得ない。
(俺のミスだ)
剣に頼り、動きが鈍った。
怒りが、内側から噴き上がる。
自分への怒りと、状況への苛立ちを抱えたまま、エドガーは二人の元へ駆ける。
――そのときだった。
ふわり、と。
ビアンカを覆っていた白い魔力が揺らいだ。
次の瞬間、それは堰を切ったように溢れ出す。
空気へ、地へ、沼へと流れ込んでいく。
白い奔流。
それは足元の泥を侵し、騎士たちの身体を包み込み、逃げ場のない魔物たちへと這い寄っていった。
触れた瞬間。
魔物が、悲鳴を上げる。
燃え上がるように暴れ狂い、近くの騎士へと襲いかかる。
「うわぁ!なんだこれは!?」
「下がれ!様子がおかしい!」
混乱の声が飛び交う。
だが白い魔力は止まらない。
逃げ場のない魔物たちは、次々と呑み込まれていく。
じゅわりと焼け爛れ、崩れ、最後には煙となって消えていった。
その光景に、エドガーは一瞬動きを止めた。
理解が追いつかない。
それでも身体は前へ進む。
暴れる魔物を斬り伏せながら、フリードリヒの元へ。
白い魔力が、エドガー自身を包み込んだ。
――違う。
食堂で感じたものとは、比較にならない。
温かい。
それでいて、脳の奥を直接撫でられるような感覚。
疲労が消え、視界が冴え渡る。
身体が軽い。
万能感が、胸の奥から溢れ出す。
「……聖女、」
思わず、声が漏れた。
ビアンカは泣いていた。
泥にまみれ、服は濡れ、亜麻色の髪も乱れている。
それでも――その周囲だけが、光に満ちていた。
『あれで健気なところがある』
フリードリヒの言葉が、脳裏をよぎる。
そのとき。
ビアンカが、はっと顔を上げた。
彼女の腕の中で、フリードリヒの瞳に光が戻る。
血の気のなかった顔に色が差し、彼はゆっくりと息をついた。
「……ビアンカ?」
かすれた声。
震える手で、彼は彼女の頬に触れる。
泥に汚れたその頬を、確かめるように。
ビアンカの瞳が、歓喜に揺れた。
「陛下……よかった、私――」
「陛下!」
「陛下が回復したぞ!」
歓声が、それをかき消す。
騎士たちが駆け寄ってくる。
「奇跡だ!」
「聖女様が奇跡を起こしたぞ!!」
もう、敵はいなかった。
戦場は静まり返り、代わりに歓喜が満ちていく。
エドガーは、その中心で立ち尽くしていた。
胸の奥が震えている。
理屈ではない。
ただ一つの確信だけが、残る。
――今、自分は“聖女の奇跡”を目の当たりにしたのだ。




