55
馬に投てきされ、フリードリヒはとっさにビアンカを抱えて馬から飛び降りた。
「陛下!」
「構うな進め! 沼の外縁は既に掃討済みだ、怯むな!」
弓を捨て、腰の剣を抜く。フリードリヒの号令が、湿った空気を切り裂いた。
だがその声は、かつてほどの鋭さを持っていなかった。
足元はぬかるみ、黒く濁った水が靴底にまとわりつく。腐臭が肺に入り込み、呼吸のたびに意識が鈍る。
「くそ……っ!」
先行していた騎士の一人が、足を取られた瞬間に獣型の魔物の爪を受けた。浅い。だが、本来ならあり得ない被弾だった。
「下がれ!」
フリードリヒは即座に踏み込む。
刃に走るのは、冷たい蒼光。
短い詠唱とともに、剣身に氷がまとわりつく。踏み込みと同時に振り抜かれた一閃が、魔物の胴を氷ごと断ち割った。
砕けた氷片が、黒い泥に散る。
「陛下、お見事です!」
後方から声が上がる。
その声に応じる余裕はなかった。
(……遅い)
斬撃の手応えに、違和感が残る。
今の一撃、本来なら“考える前に終わっている”はずだった。
「次が来るぞ!」
別の騎士の叫び。
右。
分かっているのに、体がわずかに遅れる。
振り返った瞬間、牙が迫っていた。
「……っ!」
咄嗟に身を捻り、かろうじて回避する。だが肩口を掠め、血が滲んだ。
浅い傷。
それでも――
「……なぜだ」
思わず零れた声は、自分でも驚くほど低かった。
こんな攻撃、避け損ねるはずがない。
今までは。
「陛下!」
ビアンカの声が飛ぶ。
「私から離れるなよ!」
黒い犬のような魔物が二人を囲む。
フリードリヒは背中に震えるビアンカを感じながら、襲撃に備えた。
―――魔物が、近づかない。
狂った犬のように叫びはね回っているのに、まるで見えない壁に弾かれるように、手前で騒いでいるだけだ。
そして、フリードリヒの真横を掠めた棘のようなものは――
ぱきん、と。
彼女の前で、何かに弾かれて砕けた。
音に驚いてビアンカは耳を塞いだ。
フリードリヒは一瞬、それを目で追う。
指輪。
(……あれは)
胸の奥で、何かが引っかかった。
だがすぐに、次の咆哮が思考を引き裂く。
足が四方に幾つも伸びた見たこともないほど大きな魔物が沼から這い出してきた。
「集中しろ!」
再び剣を振るう。
氷の刃が魔物の足を裂き、凍結させ、砕く。
戦えている。
魔力は枯れていない。
むしろ――常に、満ちている。
ビアンカの傍にいる限り、途切れることなく流れ込んでくるこの力。
それでも。
(足りない)
何かが、決定的に足りない。
「ぐあっ!」
後方で、また一人。
騎士が倒れた。
毒だ。
魔物が吐く霧がこちらに広がってくる。
「陣を組め! 解毒を――」
叫びかけて、言葉が止まる。
そうだ、魔法使いはいないのだ。
「……使えんのか」
舌打ちが漏れる。
その瞬間脳裏を過ぎる銀の髪。
(リリ)
かつての光景が、今の惨状に奥歯を噛ませた。
戦場に詠唱がなかったことなど、一度もなかった。
術式が現われなかった事など、一度も。
常に、完璧に展開されていた。
誰かが、整えていたからだ。
(……リーリエ)
意識した瞬間、生ぬるい風が背中を吹き抜けた。
何も、ない。
死角を埋める“何か”が。
「――陛下!」
ビアンカの悲鳴。
振り向いた瞬間、黒い泥の中から巨大な影が躍り出た。
毒の瘴気を纏った、異形。
その牙が、まっすぐビアンカへ向かう。
「下がれ!」
叫びながら、フリードリヒは踏み込んだ。
間に合わない距離。
それでも、体は勝手に動いていた。
剣を振りかぶる。
その瞬間、視界の端で――
ぱきん、と光が弾ける。
ビアンカの指輪が、攻撃を弾いた。
避ける必要はなかった。
だが、止まれなかった。
長年染み付いた「守る」動きが、思考を追い越していた。
「――っ!」
魔物の尾が、横薙ぎに振るわれる。
咄嗟に庇ったその背に、直撃した。
鈍い衝撃。
骨が軋む。
そして、遅れて――
熱。
「……ぐ、あ……っ」
毒だ。
体内に、何かが流れ込んでくる。
膝が崩れる。
「陛下!!」
ビアンカの声が、やけに遠い。
視界が揺れる中で、フリードリヒの思考が巡る。
(……あの指輪)
ビアンカは、護られていたのか
。
けれど、きっと体は動いた。
かつてと同じように。
何も考えずとも、守れると思っていた頃のように。
だが。
「……遅い、な……」
掠れた声が、泥に落ちる。
今はもう、その“当然”はない。
「陛下、しっかり……!」
ビアンカが縋るように抱き寄せる。
その手は、震えていた。
腕のブレスレットが揺れる。
渡せなかった。
(……違う)
(渡さなかった)
指輪は、彼女を守っている。
ビアンカの目にみるみる顔色を無くすフリードリヒが滲む。
「いや、嫌よフリードリヒ。ひとりにしないで!」
涙と共にこぼれた自分の言葉にビアンカは驚いた。
本心で彼を求めていた。
もう彼はいなくなってしまうのに。
凍えたような声で、ビアンカはフリードリヒに語りかけた。
「フリードリヒ。ああ、死んではダメよ」
ビアンカは血の気の引いた冷たい頬に震える手を添えた。
彼の口が、はく、と動いた。
「……リーリエ……」
無意識に零れた名に、ビアンカの肩がびくりと震えた。
その声は、彼女の胸を深く抉った。
彼の体温が、急速に下がっていく。
指輪が、じわりと熱を帯びる。
まるで。
届かなかったもう一つの加護を、嘲るように。
沼の風が、腐臭とともに吹き抜けた。




