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「嘆きの沼」は、中央の黒い「魔王の卵」からじわじわと広がる災厄だった。
卵を守るように、沼から魔物が湧き続ける。
一年前から先発隊が掃討を続け、沼の外縁は確かに縮小していた。
だが――中心は、何も変わっていない。
「……近づけない、か」
フリードリヒは低く呟いた。
卵までは、あとわずか。
それなのに、魔物の発生が途切れない。
倒しても、倒しても、埋まらない。
「突っ込みすぎるな! 魔法使いの支援はないんだぞ!」
後方で怒号が飛ぶ。
その声に、かつての戦場の光景が一瞬よぎる。
――魔法陣。
――死角の補助。
――回復。
だが、それはもうない。
この沼は、魔法使いにとっての鬼門だった。
魔力を使えば使うほど、黒い魔力が体内に蓄積し、元の循環が壊れる。
戻らない。
その「現象」だけを知っていたフリードリヒは、リーリエをここから遠ざけた。
理由も、理屈も、説明できないまま。
結果。
志願した若い魔法使いたちは、すぐに戦線離脱した。
今、この場にいるのは――剣と体だけで戦う騎士たちだけだ。
そして。
「ビアンカ、しっかり掴まっていろ」
フリードリヒは彼女を自らの馬の後ろに乗せた。
前には乗せられない。弓を使うためだ。
剣を捨て、弓へ。
氷の魔法を矢に宿す。
きり、と弦が鳴る。
放たれた矢は、正確に魔物の核を貫いた。
次の矢。
また次。
止まらない。
ビアンカから滲む、かすかな白い魔力。
それがフリードリヒの中を巡り、魔力を補い続けている。
本来なら枯渇するはずの力が、尽きない。
「……行ける」
呟きとは裏腹に、胸の奥がざわついた。
囲む騎士たちが、迫る魔物を切り伏せる。
だが、その動きは鈍い。
遅い。
一瞬の遅れが、傷になる。
「ぐっ……!」
誰かが倒れる。
別の誰かが肩を裂かれる。
フリードリヒは矢を放ちながら、違和感に歯を食いしばった。
(……遅い)
魔物の動きではない。
自分の反応だ。
以前なら、不規則な軌道すら先読みできた。
奇襲など、恐れるものではなかった。
だが今は違う。
視界が追いつかない。
判断が遅れる。
そして――
「っ……!」
肩に衝撃が走る。
何かが掠めた。
見えなかった。
じわり、と血が滲む。
(馬鹿な……)
あり得ない。
この程度の攻撃を、見逃すはずがない。
弓を引く腕が、重い。
呼吸が浅い。
汗が、止まらない。
疲労。
その単語が、頭をよぎること自体が異常だった。
「陛下! 左から――!」
声。
反応が、半拍遅れる。
矢は放った。
だが、かすめただけだ。
騎士が飛び込み、辛うじて斬り伏せる。
(……何が、起きている)
理解できないまま、戦場だけが進む。
その背で。
ビアンカは目を閉じていた。
あまりにも凄惨な光景。
目を開けていられない。
祈るように、ただ震える。
だが――
彼女には、一切届かない。
飛来する石も、毒も、破片も。
そのすべてが、彼女の頭上で弾け、霧散する。
ぱきん、と乾いた音。
見えない壁が、すべてを拒絶していた。
リーリエの指輪。
その効果を、ビアンカは知らない。
ただ「守られている」とも、気づいていない。
フリードリヒもまた、知らない。
背後で起きている奇跡を一切知らず、ただ必死に矢を放ち続ける。
「……くそっ……!」
苛立ちが混じる。
狙いが甘い。
反応が遅い。
体が、重い。
かつて当然だった「万全」が、どこにもない。
それでも。
「押し切るぞ!」
声を張り上げる。
己の力で、ここまで来たと信じているから。
かつて、背後にあったものを――
誰一人として、思い出せないまま。
沼は、静かに彼らを呑み込んでいく。




