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「嘆きの沼」掃討作戦の指揮官、エドガー・マクシミリアンは、わずか一年という異例の短期間でフリードリヒ国王を戦地へ迎える段取りを整えていた。


「沼」は、ただそこに在るだけの災厄ではない。黒く淀んだ泥の中から絶え間なく魔物を生み出し、じわじわと領域を侵食していく。過去の掃討作戦はいずれも二年、長ければ三年を要した。


それを一年でここまで押し戻したのは、紛れもなくエドガーの手腕だった。


建国の英雄の一人――その呼び名は、少なくともこの戦場においては誇張ではない。


すでに「沼」は目に見えて縮小していた。 中央に潜む「魔王の卵」の破壊は目の前だ。


そしてその役目を果たせるのは、ただ一人。

フリードリヒ王のみである。


砦の上から、エドガーはその「沼」を見下ろした。

どろりとした黒い地面が、まるで生き物のように蠢いている。泡立つ泥が大きく揺らめくと、その中から魔物が這い出てくる。兵士たちはそれを迎え撃ち、押し返し、沼が広がらないように食い止めていた。


「短期間での掃討」と王都では称えられている。


だが、一年。


昼も夜もない。 狂ったように叫び、泥を撒き散らして襲い来る魔物と、ただひたすらに斬り結ぶ日々。


ようやく、終わる。


エドガーはゆっくりと息を吐いた。


これで、彼らを帰してやれる。 疲れ切った兵士たちを、家族のもとへ。 そして自分たちの新しい故郷――エルディフィアへ。


ふと、脳裏に浮かぶ顔があった。


幼い戦友。 銀の髪の少女。


出会った頃は、まだ十にも満たない子供だった。

それが、先日の彼女からの手紙には成人が待ち遠しいとあった。


――早いものだな。


戻ったら祝いに顔を出さねばならない。 そう思うのに、思い出されるのは、あどけない頃の顔ばかりだ。


知らず、口元が緩む。


「閣下、陛下がまもなく到着されます」


声に、エドガーは振り返った。


その表情には、もう先ほどの柔らかさは残っていない。 指揮官としての顔が、そこにあった。



---



「陛下、お待ちしておりました」


深く頭を垂れながら、エドガーはわずかな違和感を拭えなかった。


フリードリヒの隣に立つ女。


場違いなほどに艶やかで、この泥と血に塗れた戦場には似つかわしくない存在だった。


ビアンカと名乗ったその女は、聖女だという。


たしかに、その身から滲む魔力は明らかだった。魔力感知を得意としないエドガーでさえ、視認出来るほどだ。


これほどの力があれば、兵の士気にも影響するだろう。


――それにしても。


笑わない。


案内されていく背を見送りながら、エドガーは思う。


彼女は終始不機嫌そうで、表情を緩めるのはフリードリヒに向けたときだけだった。埃一つ許さぬような整った装いは、この戦場の空気から完全に切り離されている。


「ビアンカが意外と体力があってな。思ったより早く着いた」


移動の疲れも見せず、弱音一つ吐かなかった。あれで健気な所があると、フリードリヒは言う。


だが、エドガーの目にはそうは映らなかった。 殊勝というより、ただ興味がないだけに見える。


口には出さないが。


それよりも気にかかるのは――二人の距離だ。


あまりにも近い。


(……まさか王都でも、あの調子か?)


脳裏に浮かぶのは、銀髪の少女の姿。


わずかに、眉が寄る。


「なんだ、戦況に不安があるのか」


フリードリヒが金の目を向けてくる。


「いえ、問題ございません。ご説明致しますのでこちらへ」


二人は部屋へ入っていった。


---


夕食の席。

灯りに照らされた簡素な食堂には、戦場特有の張り詰めた空気が漂っていた。


「スヴァルトハイムに魔法塔を任せられたと聞きました」


何気ない口調で、エドガーは探る。


「ああ、しっかりやってる」


フリードリヒは興味なさげに答えた。

その隣で、ビアンカはつまらなそうにフォークを動かしている。彼女の周囲には、淡く白い魔力が漂い、部屋全体へと静かに広がっていた。


その魔力が触れた瞬間、エドガーの身体から疲労が薄れていく。

温かい。 妙に心地いい。

だが同時に、それが不自然であることも理解していた。


彼女には疲れの色がない。 長距離を馬で移動してきたとは思えぬほど、髪も肌も完璧に整っている。


「ビアンカ殿が同行なさるなら、スヴァルトハイムも連れてきてもよろしかったのではありませんか」


軽い調子で言ったつもりだった。

「嘆きの沼」は魔法使いにとっては鬼門。 だが、聖女の魔力があれば覆せるのではないか――酒も手伝い、そんな考えが口をついて出た。


「バカを言うな。ダメに決まっているだろう」


フリードリヒの、強い否定。

冷たい金の瞳が、真っ直ぐにエドガーを射抜く。

場の空気が張り詰める。


「私は、ビアンカ殿ほどの聖女がおられるなら魔法使いの運用も、一計の余地があると申し上げただけです」


エドガーも退かない。

フリードリヒは静かにワインを置いた。


「リーリエに万が一があったらどうする」


その一言に、エドガーは目を見開いた。


――なるほど。


この女に現を抜かしているわけではないらしい。

以前と変わらぬリーリエへの過保護には閉口するが。



そのとき、ビアンカが小さく咳をした。


「少し、疲れました」


柔らかな声。

席を立つ。


フリードリヒは即座にそれに応じ、彼女を気遣うように共に退席した。


扉が閉まる。


聞こえるのは戦場から聞こえてくる微かな喧騒。


エドガーはゆっくりと息を吐き、近くに控えていた騎士へ視線を向けた。


「おい」


低い声。


「王都はどうなってる」


問いの先にあるのは、ただ一人だった。

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