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王都から離れ、「嘆きの沼」までは先を急ぎつつ、ビアンカの体力に合わせた行軍だ。
フリードリヒの一行は、かつての英雄たちの建国前の熱狂を語り継ぐ、さながら過去をなぞる巡礼のようでもあった。
川辺で馬に水を飲ませながら、騎士たちの間では、自然と一昨年領地戦に遡る。
「……あの山の麓でしたな。リーリエ様が魔法で龍を粉々にしたのは」
「ああ、『赤い粉』になった鱗が夕日に舞ってな。花吹雪のようで見とれたがな、後ろの山までえぐれていてゾッとしたよ」
苦笑混じりの声に、若い兵が目を輝かせる。
「“赤い粉”って、本当にあったんですね」
「ああ。最初は、あのお嬢ちゃんをからかうための呼び名だったんだがな」
「当時はまだ小僧みたいな格好でな。そこに突然、銀髪の妖精が現れて山を削った。そりゃあ軍中がひっくり返る」
どこか誇らしげな響きが混じる。
「あの火力は頼もしかったが……魔導書抱えて戦場をちょこまかして、本当に――」
「可愛らしかった」
「今は立派な美しい魔法使い様……」
リーリエを思い出すように語る騎士ははっと顔を引き締めた。
「……失礼しました、陛下」
近くの木陰で水を飲むフリードリヒが、肩越しに鋭い視線を投げる。
「リーリエは国の要人だ。余計な色眼鏡で語るな」
本気か冗談か測りかねる声音。
騎士たちは顔を見合わせ、小さく肩をすくめる。
「……相変わらずだな」
「心配性な父親かお兄さんみたいですね」
「子離れしてください、ってやつだ」
「七つしか離れてないんだぞ!兄だろうが」
フリードリヒの声に騎士たちは笑った。
戦場の、気取らないリューン王子が帰ってきたようだ。
話題は他の英雄たちにも及ぶ。
だが彼らの武勇はいかつい男たちの武勇でしかない。
話題がリーリエに及ぶたび、騎士たちの声には、畏敬と、どこか娘や妹を慈しむような愛着が混じるのだった。
そのすべてを、フリードリヒの隣でビアンカは微笑みながら聞いていた。
(妖精……?)
手綱を握る指先に、わずかに力がこもる。
(あんな、可愛げのない女が?)
彼女の心は、リーリエを称える言葉の一つ一つに、棘を突き立てられるような不快感で満ちていた。
一日の行軍を終えた夜、他の騎士たちが泥と汗にまみれて泥のように眠った。向かう先は、先発隊が善戦していると言っても死地と言われる場所だ。聖女の手前楽しげな話はしても緊張が彼らの体力を奪っていた。
行軍の速度も早い。
ビアンカは布団の中、一人不満気な顔で横になっていた。
馬の巻き上げる砂埃は不快だし、食べ物は簡素で、今寝ている布団も寝心地が悪い。
眉間にシワを寄せながら眠る彼女は気づかなかった。
しかし、それだけだった。
疲労がない。
体が軽い。
肌も、髪も、整いすぎて寝癖もつかない。
けれど、それに気づかない。
守られていることが、あまりにも自然すぎて。
何も起きていないことに違和感を覚えられない。
腕に嵌めたブレスレットは、静かに魔力を吸い上げていた。
溢れる白い魔力を燃料に、疲労を消し、体調を整え、ビアンカを快適な状態にした。
リーリエから投げつけられた指輪は、外界の穢れを拒絶する。
泥も、湿気も、彼女には触れない。
「……埃っぽいわね」
そう呟きながらも、自分が一切汚れていないことには、最後まで気づかなかった。
「疲れていないか」
フリードリヒが声をかけても、ビアンカは優雅に「平気です」と答えた。
騎士たちは彼女を疲労を隠して凛と立つ健気な聖女と熱い眼差しを送った。
完璧な加護は、誰にも気付かれず静かに機能し続けていた。
そして、ビアンカの魔力は体から滲む程度になっている事に誰も気づかなかった。
奇しくもそれは、フリードリヒや騎士を誰も酩酊させずに行軍させる結果となっていた。
――そして二日後。
嘆きの沼」の縁にて、フリードリヒはビアンカに告げる。
「ここで待て。後方で士気を支えてくれればいい」
当然の判断だった。
だが、その言葉はビアンカの内側に残っていたプライドを傷つけた。
(戦場の妖精)
(美しい魔法使い)
あの言葉が、まだ耳に残っている。
自分は、後方。
彼女は、前線。
それでは王都に戻る二日、またリーリエの愛らしい武勇伝を聞かされる。
自分が英雄にならなければ。
「いいえ、陛下」
ビアンカは美しい顔を上げる。
艶のある亜麻色の髪が風に揺れ、疲れを知らない強い琥珀の瞳が、まっすぐにフリードリヒを射抜いた。
「私も、沼まで参ります」
周囲の空気が変わる。
「私から魔力が溢れているのでしょう?」
静かで、柔らかく、しかし凛とした声。
「でしたら、陛下のお側にいた方が、よりお役に立てますわ」
あまりにも正しい言葉。
あまりにも美しい献身。
騎士たちの間にざわめきが広がる。
「おお……」
「聖女様が、前線に……!」
士気は、簡単に跳ね上がった。
フリードリヒは一瞬だけ迷い、そして頷く。
「……分かった。私から離れるな」
その選択が何を意味するのか、誰も知らない。
ビアンカは微笑む。
自信に満ちた、完璧な聖女の笑みで。
今の自分を支える活力の源がどこから来るのか、彼女は知らない。
指には、リーリエの指輪。
腕には、奪い取ったブレスレット。
それらを忘れ、私には白い魔力があるのだものとビアンカは意気込んだ。彼女には見えない白の魔力。それは、今も騎士たちを覆うほど溢れ出ていると信じて疑わなかった。
そして彼らは踏み入れる。
かつて、リーリエの献身の手が届いていた場所。
気づかず享受していたそれが己の力であると信じて、彼らは今、力強く歩を進めた。




