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リーリエがスヴァルトハイム邸に戻ったのは日が暮れてからだった。
「お帰りなさいませ」
侍女たちが朝より元気な気がする。
屋敷の中が明るいのはいいことだ。けれどノクスの事を誤解しているのは明白で、少し気まずくてリーリエは小さくただいまと言った。
「ファルネ様がお待ちですよ」
破けたローブを渡すと、侍女は笑顔で答えた。
「そう、よね……」
言い終える前に、階段の上から「お帰りなさい」と、低く落ち着いた声が降ってきた。
「おかえり」
朝からずっと待っていたノクスが二階から降りてくる。その表情は穏やかだった。では足音が怖いのは何故なのか。答えはノクスが教えてくれた。
「随分遅かったんだね。陛下は昼前には王都を発たれたと聞いたけど」
怒っている。ものすごく。寄り道した事を責めている。
「ご、ごめんね。魔法塔に少し用事があって」
リーリエの自室に向かって並んで歩く。
「陛下をちゃんと見送れた?」
ノクスの質問で怒れるフリードリヒを思い出して苦い顔をする。
「ああ、うぅん。まあ、色々あって……」
煮え切らない態度のリーリエに、ノクスは怪訝な顔をしたが問い詰めなかった。今日は、リーリエと自分の大事な話をする日なのだから。
「大事な話、いつする?」
緊張したものに変わったノクスの口調に気づかないリーリエは、ちょっと考える仕草をした。目の前はリーリエの部屋だ。
「ねえ、その話。やっぱり明日にしない?」
昼間の醜態で感情の整理がつかないリーリエは、ノクスの顔も見ずに先送りを選んだ。
「今日、上手く話せない気がして、」
言いながら、逃げるように部屋のドアノブに触れたリーリエの手を、ノクスはそっと握った。
その手の温かさに驚いてリーリエが肩越しに振り返ると、存外近くにいた彼がにっこり笑った。
「リーリエ」
温度がすっと引くような、低い声。リーリエは背筋がぞわりとした。
「……昨日は肩透かし。今日はお預け?期待させておいて、それは酷いな」
「え、ノクス……?」
リーリエの瞳をじっと見つめ、独り言のように呟くと、扉に手を付き、リーリエの背に距離を詰める。
「驚いたよ。俺、気の長い方じゃないみたいだ」
リーリエの手を包むノクスの大きな手はやさしい。耳元で囁いてくる声も。
「期待してもいいって言ったよね?」
背後に不穏な空気を感じて、リーリエは思わず頷いた。
「う、ん」
「待ち遠しいのは俺だけ?」
ふっと、寂しい声を出すノクス。
リーリエの胸がキュッとなる。
「私も。待ち遠しいよ」
振り返ると、ノクスは熱を帯びた潤む瞳でリーリエを見下ろしていた。
リーリエは胸に手を当てて意を決した。
「いいわ。じゃあ今夜、部屋に来て」
ノクスの動きがピタリと止まる。
「部屋。……執務室か、応接室でもいいんじゃない」
動揺を隠し、声が裏返らないように務めるノクスのシャツの裾をモジモジとつかむリーリエに、ノクスの頬は熱を帯びる。
「初めてだから。不安だわ」
リーリエの言葉に、ノクスの思考が一瞬止まった。
――初めて。
意味を理解するまで、わずかな間。
―――初めて。
ノクスの頬に熱が一気に上がる。
「……それ、本気で言ってる?」
かすれた声だった。
リーリエは、何の疑いもなく頷く。
「ええ」
ノクスを真っ直ぐ見つめるリーリエの青い瞳。その奥には不安の色。
それでも瞳をそらさない。
ノクスは顔を背け、深く息を吐いた。
「……だめだ」
小さく呟く。
彼女の甘い匂い。柔らかい手。
その気もないのにリーリエの全てが煽ってくる。
「タチ悪い」
理性が勝ち、やっと言う。
「え?」
ドアノブと一緒にずっと握ったままのリーリエの柔らかな手。ノクスは少しだけ握る力を強めた。
「……俺も、そうだよ」
低く、押し殺した声だった。




