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「去れ」
フリードリヒの低い声が、空気ごと凍らせたように響いた。
胸の奥に、何か硬いものが沈む。
リーリエは少しの間彼を見ていたが、やがてゆっくりと身を起こした。ほどけかけたローブの裾を引き寄せる。床に散らばった金具が、靴先に触れて乾いた音を立てた。
何が起きたのか、うまく繋がらない。
ビアンカが指輪を投げた。罵倒された。
それは確かに不愉快だったけれど、どうでもいいことのはずだった。
だって――必要なのは、あの指輪の方だ。
あれがあれば、ビアンカは怪我をしない。
それだけで十分だった。
だから、少し強引に見せただけだ。
ちゃんと守れると、分かるように。
そこまで考えて、ふと足が止まる。
いつの間にか、城を出ていた。
磨き上げられた石畳から、粗い外道へ。朝の光はすでに高く、白く乾いている。風が頬を撫でていく。ひやりとしたはずなのに、どこか心地よかった。
魔法塔の影が短く地面に落ちている。
こんな距離、歩いてきたのか。
リーリエは小さく笑った。自分でも理由はよく分からない。
人目を避けるように、塔の外階段へ足をかける。石の階段はこれほど段差のあるものだっただろうか。リーリエは踏み外さないように気をつけながら登った。上へ、上へと歩を進めるにつれて、喧騒は遠のき、風の音だけが強くなった。
最上階。
重い扉を押し開けると、空気が変わる。
天空資料室は静まり返っていた。
高い天井はドーム状にガラスで覆われ、陽の光がやわらかく降り注いでいる。埃が光の中でゆっくりと漂い、時間の流れすら鈍らせているようだった。
「……誰もいないな」
呟きは、やけに軽く響いた。
リーリエはそのまま、窓辺近くのソファに身を落とす。沈み込むクッションの感触に、ようやく体の重さを思い出した。
昨日と同じだ。
同じ場所で、同じように崩れ落ちている。
ふっと笑いがこぼれた。
その拍子に、手にじくりとした痛みが走る。
見ると、掌に血が滲んでいた。外れた金具で切ったらしい。乾きかけた血が、指を動かすたびに引きつれる。
ローブの袖もかぎ裂きに破れ、どこか埃っぽい。
「……まるで戦場帰りね」
昨日どころか、建国前の戦いの最中まで戻ってしまったようだ。
あの、血と汗と泥に塗れた気の休まらない日々。
誰も死んで欲しくなくて、幾つもの魔法陣を一日中展開していたあの頃。
フリードリヒだけが太陽のように輝いて、彼が背中を預けてくれる事が誇りだった。
「渡せなかったな……」
フリードリヒにはブレスレットを用意していた。
ビアンカがそばにいる前提の、有り得ないほど燃費の悪い魔法陣を描けるだけ描いた「完全に体調が良くなる魔道具」だ。
ビアンカの白い魔力に酩酊していては「沼」から生きて帰れないから。
彼女の魔力を浴びないのは無理だから、せめてフリードリヒに届く前にブレスレットの魔法陣に使ってしまおうという魂胆だ。
突貫で作ったので動作確認していなかったのが悔やまれた。
「……今やってみようかな」
自分の体には、丁度よくビアンカの白い魔力が満ちている。
リーリエはのそのそと起き上がると、紙とペンを用意し、昨日ブレスレッ
トに描いたものより大分大きな魔法陣を描いた。
「……よし」
出来上がった魔法陣を念入りにチェックした。
ブレスレットの魔法陣は周囲の白い魔力を利用するが、ここにはビアンカの魔力がないので今回は体内から調達する。
リーリエはそれを腕にぺたりと張った。
ドキドキしながらすっと白い魔力を流す。すると、途端にリーリエの体内の白い魔力が魔法陣にどんどん流れていく。
「あ、まずい」
みるみる吸い取られる魔力に驚いてすぐに魔法陣を剥がそうとするが、慌ててしまって中々取れない。
腕を振ってやっと剥がれた魔法陣を見て、リーリエはふう、と息を吐いた。
リーリエの体内を満たしていた白い魔力が大分取られてしまった。
「…これは、ビアンカ専用だわ」
徹夜の体が軽い。手の傷も消えてるし、昨日擦りむけたアキレス腱の傷も綺麗に治っていた。
それだけではない。肌も髪もつやめいて、眠気も吹き飛んでいた。
これならビアンカの隣にいくらいても大丈夫に思えた。
まあ、渡せてないけど。
それもこれも勘違いして暴力をふるってきたフリードリヒのせいだ。
あれは、見せただけなのに。
ビアンカに、どうしても持って行って欲しかったから。
ふとビアンカの顔が思い浮かぶ。
恐怖に引きつったあの顔。
どこかで、知ってる。
似たものを、知ってる。
―――なんだろう。
ビアンカに感じたあの気持ち。
嫌いなのに、守らなければならない、というあの感覚。
白い魔力も抜けたリーリエの頭は妙に冴えて、すぐに答えにたどり着いた。
そして。
ハッとする。
「ああ、そうだ」
指先がわずかに震える。
「あれだ」
ぽつりと、零れた言葉。
「捕虜だ」
敵国の貴人を捕らえたとき。
価値があるから、死なせてはいけない。
しかし保護はしても尊重はない。
あの時と、同じだ。
リーリエの思考が、ようやく現実に追いついた。
血の気が引く。
「……あ」
やってしまった。
なぜあんな醜態を?
フリードリヒを酔っぱらい陛下となじった記憶が蘇る。
「……私もあんな風に?」
あの感覚が、ビアンカの白い魔力に酩酊していたということか。
ビアンカの悪口に、フリードリヒに言うような軽口を叩いて。
投げられた指輪を投げ返して。
挙句の果てに指輪の効果を分からせようと氷塊まで降らせた。
『去れ』
問答無用でそう言ったフリードリヒの鋭いあの金の目が脳裏に焼き付いている。
きっと、彼は気づいたのだ。
リーリエは頭を抱えてうずくまった。
「消え去りたい……」
小さく呻いた声は、広い資料室に吸い込まれていった。




