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「分かってたよ」
ノクスが、非難するような眼差しをリーリエへ向けた。
彼は二人掛けのソファに浅く腰を下ろしていた。艶のある濃茶の木枠に、深緑の張り地。背もたれに片腕を預けるその姿勢は気怠げで、長い脚が無造作に前へ投げ出されている。
その視線の先、リーリエは鏡の前に座らされていた。白木に繊細な彫刻が施された鏡台は、彼女の細い体をさらに小さく見せる。背後では侍女が、銀糸のような髪を指に絡め取りながら、ゆるやかに編み込んでいた。
確かめたいことがあるの。彼女は昨日そう言った。
要領を得ない説明をリーリエにされたけれど、ノクスは黙って聞いた。
説明の内容はどうでもよかった。
つまり、自分は振られたってこと。重要なのはそれだけだった。
「分かってたけど、あのタイミングで言うかな」
彼女は手紙に封をしながら苦い顔をした。
リーリエは毎朝手紙を沢山書く。宛先はほぼ魔導書で誓約書を作った面々だ。親交を深めれば敵対心が緩んで彼らの心が安らぐのではないかという彼女なりの配慮だった。
昨日は徹夜でそのまま身支度となったため、こんな場所で何枚も封蝋する羽目になっていた。
「まだ言ってるの。ごめんってば」
リーリエは鏡越しにノクスを見て、少しだけ肩をすくめた。鏡に映る彼女の瞳は、いつもより落ち着かずに揺れている。
ここはスヴァルトハイム邸。
高い天井からは細い鎖で吊られた燭台が下がり、朝の光と混ざって淡い金色を室内に落としている。壁には淡い色彩の絵が飾られ、窓辺からは美しい庭園が見渡せた。
ノクスは唇を尖らせたまま、視線を逸らす。
「……一緒に住もう、とか言うからさ」
いじけた声音だった。
リーリエが簡単に心変わりするはずがないと分かっていたのに、期待してしまった自分が恥ずかしい。
「一緒に住むでしょ?……荷物全部持ってきてくれた?」
話を変えるように、リーリエが振り向く。編み終えられた髪が肩口で揺れ、いつもより少しだけ大人びて見えた。
ノクスはその変化に一瞬だけ目を奪われる。
「……可愛い」
不本意そうに、ぼそりと呟いた。
「持ってきたよ。荷物はこれで全部」
街から離れた別宅を探す間、ノクスはスヴァルトハイム邸に住むことになった。
彼の足元には、革の鞄がひとつ。
それに気づいて、リーリエは胸の奥がちくりとした。
「お部屋のもの、後で買い物に行きましょう」
「うん。今度は邪魔が入らないから楽しみだよ」
軽く笑うノクスの言葉に、リーリエはわずかに視線を逸らした。
フリードリヒは今日、「嘆きの沼」へ向かう。建国の英雄たちが魔物をあらかた減らしたからと言って、安全な場所ではない。
しかしその不在を、ノクスは素直に喜んでいた。
部屋の隅では、侍女たちが控えめに立っていた。揃いの黒いドレスに白いエプロン。背筋を伸ばし、手は前で静かに重ねられている。だが視線だけは隠しきれず、二人のやり取りを柔らかく追っていた。
「え、何? ソフィアもアンナもニヤニヤして」
リーリエが眉をひそめると、侍女たちは顔を見合わせ、堰を切ったように口を開いた。
「私達嬉しくて。リーリエ様、やっとファルネ様のお気持ちに応えられたんですね」
「密かに応援していたんです。ファルネ様がリーリエ様のお心を射止めてくださるのを」
小柄なソフィアが頬を押さえ、背の高いアンナが嬉しそうに身を乗り出す。二人ともリーリエに声をかけられるのを待っていたようだ。
「私達、陛下にお会いしたことはございませんが……ファルネ様の方がお似合いだと、皆で話しておりました」
その言葉に、望みはないのにノクスは耳の先まで赤くなる。長い指が無意識に膝の上で組み替えられた。
「え、私とノクスが?」
リーリエも同じように頬を染める。
「はい。別宅を構えられるのは寂しいですけれど、この屋敷のことは私達がお守り致しますので」
「あの、あのね」
「本当におふたりだけでお住まいになるんですか?遠くてもお手伝いに参りますよ」
声が重なり、距離が詰まる。
「あ、うん……そうね。大丈夫よ。誰もいない方がいいから」
言った瞬間、侍女たちの表情がぱっと華やぐ。
「違うわ、違うの。そういうんじゃなくて」
慌てて手を振るリーリエ。その細い指先が空を切る。
だがその時、扉が静かに開いた。
年嵩の侍女長が出発時間を伝えに入ってくる。灰色の髪をきっちりとまとめ、無駄のない動きで一礼した。その存在だけで、場の空気が引き締まる。
リーリエが許していても、侍女達は彼女に怒られてしまう。
「あなたたち、はしゃぎすぎです」
「はい」
「すみません」
侍女たちは真顔になってリーリエに頭を下げた。
「いいのよ」
結局、誤解は解けないままだった。
「じゃあ行ってくるね」
リーリエが立ち上がる。青い式典用のローブが肩に掛けられ、重みのある布が背中に沿って流れ落ちる。袖口には細かな刺繍が光り、華奢な体の彼女を、威厳ある塔の主にした。
今からフリードリヒの出征を見送りに行くのだ。
彼とビアンカのために、リーリエは徹夜で魔道具を作った。白い頬にはわずかに疲れが滲んでいる。それを隠すため、侍女たちに念入りに化粧を施された。途中何度も船を漕ぎ「魔力がなくて」「徹夜なの」などと言い訳しながら。
やっと整えられた姿はいつもより華やかで、凛として見える。
「ビアンカに会わなくていいの?」
ローブの紐を結ばれながら、リーリエが問う。
「なんで?」
ノクスは短く答えた。興味のないものを切り捨てるような声音だった。
「とっても危険な所へ行くのよ」
金の留め金がローブにつけられ、リーリエの用意が完了した。
「平気だよ。リーリエが徹夜で作った凄い魔道具があるんだろ?」
机に置いた木箱を爪でコツコツとつつくノクスにリーリエは「そうだけど」と複雑な顔をした。
「気をつけてね」
立ち上がり、ノクスはリーリエを引き寄せる。軽く、だが迷いなく抱きしめた。
細い体が彼の胸に収まる。
触れるのを、許してくれるのはなぜなんだろう。ノクスは聞かない。きっと返事を聞いても理解できない。
「フリードリヒに見せるのが惜しい」
ノクスが彼女の陶器のような頬を愛しそうに指でなぞる。リーリエは顔をしかめた。
「からかわないで」
小さく胸を叩く。その力は弱く、拒絶にはほど遠い。
「ねえ」
リーリエが意を決した顔をしてノクスを見上げる。
上目遣いが可愛くて、ノクスは少しニヤけた。
「今日、帰ってきたら大事な話があるの」
ノクスの胸が期待に大きな音を立てた。
いや待て、「一緒に住もう」事件を思い出せ。
ノクスは軽く息を吐いて聞いた。
「大事な話?」
「うん。ノクスが聞きたかった話。私、勇気出すから、聞いてくれる?」
ノクスの胸が高鳴る。
大事な、俺の聞きたい話を、勇気をだして、リーリエが?
思考が自分の都合のいいようにしか働かない。
しかもフリードリヒと今から会ってくるのだ。
「期待、していいの?」
思わずノクスの口から願望が飛び出す。
「うん」
リーリエはノクスの胸に手を当てた。
「じゃあ行ってくるね」
リーリエは踵を返す。ローブの裾が床をかすめ、柔らかく音を立てた。
ノクスはその姿を真っ赤な顔をして眩しそうに眺めた。
扉へ向かう途中、ふと思い出したように彼女は振り返る。
「みんな、ノクスに近づかないようにね」
黒い魔力、吸われるといけないから。そういう意味だった。
侍女たちに向けた忠告。
だが彼女たちは顔を見合わせ、くすりと笑うだけだった。
その意味を、リーリエはもう追わなかった。
「……リーリエって、説明下手くそだよな」
ぽつりと呟き、首に手を置くノクスの耳は熱を持ったままだった。




