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なくなってしまった。
リーリエが心血を注いで作り上げた魔導書が。
それだけではない。
気付かされた。
フリードリヒの、自分に対する空っぽな親愛も。
ノクスの無自覚な魔力吸収の癒しも。
何もかもがリーリエを惨めにした。
「リーリエ」
後ろから、ノクスが抱きしめてきた。
「ひとりで泣かないで」
「ノクス、ごめん」
リーリエは振りほどこうとするけれど、彼の腕からは出られなかった。
リーリエの身体が震えて、ノクスはいっそう強く彼女を抱きしめた。
彼女から、微かにフリードリヒの匂いがした。
「……あいつ?」
リーリエの耳元で、ノクスが冷えた声を出す。
「フリードリヒのせいで泣いてるの?」
「そういう、訳じゃ……」
「リーリエはいつもそう」
リーリエが言う間もなく、ノクスは言い募る。
「フリードリヒに振り回されて、絶望するって分かってるのに。いつまであいつを見るの」
「やめて」
「分かってるだろ。フリードリヒがどんなやつなのか。リーリエをどんなふうに見てるのか。ずっと見てたんなら」
「やめてよ!」
急に核心を突かれ、リーリエは思わず叫んだ。
ノクスの腕から離れ、リーリエは手で顔を被った。
「酷い。酷いよノクス」
そんな詰められたら、吐露するほかに選択肢がない。
「リーリエ」
「出来るならやってるの。苦しいのに、すごく苦しいのに。どうしたらいいか分からないの」
顔を隠すリーリエの震える手を、ノクスがゆっくり外してあげた。
彼も泣いていた。リーリエのフリードリヒへの思いで心が張り裂けそうだった。
ノクスが、掠れた声でリーリエに言う。
「もう、陛下に告白したらいい」
「無理よ、だってフリッツは・・・」
言葉が続かず、リーリエは目を伏せた。
その切ない顔に、ノクスの心は穏やかではいられない。言葉尻を取ってノクスは捲し立てた。
「フリッツは?もう結婚してしまうから?」
大仰に手を広げるノクスを、リーリエは鋭く睨んだ。
「そうよ。オリアナ様がいるのに。それに心はビアンカ様が持っていってしまった。今さら、どうしろって言うのよ」
悔しそうに顔を歪めるリーリエの瞳にみるみる新しい涙が溜まり、ぼろりと零れた。
ノクスがリーリエの手を取る。彼の黒い瞳からも新しい涙がこぼれた。
「告白して欲しい」
祈るようなノクスの言葉に、リーリエは手を払い除けて吠えた。
「だから!もう意味ないんだってば!もう・・・・・・言わせないで」
涙が溢れ続ける青い瞳を隠すように、リーリエは両手で顔を覆って震えた。
言わせられた。自覚させられた。フリードリヒを思っていた時間が、今泡になるのを感じる。指の間をすり抜ける恋心に胸を締め付けられて、立っていられない。
ノクスはリーリエを優しく抱きしめた。リーリエはノクスの胸をグイグイと押したが、彼は少しも動かなかった。
「ノクスのいじわる。どうして酷いことばかり言うの」
涙声がノクスの胸に響く。ノクスはリーリエの頭を優しく撫でて言った。
「リーリエの愛が欲しいから」
ノクスの胸を押していたリーリエの腕が止まる。ノクスは気にせず続けた。
「君が好きで、俺を見て欲しくて。でも君はいつまでもフリードリヒを見てるから。あいつを、忘れて欲しくて」
そっと力を緩めると、胸の中のリーリエは真っ赤な顔をしていた。
「ごめん。お願い。失恋して、俺を見て」
ノクスの黒曜石の瞳が恋の熱に潤んで、リーリエに縋るように抱きしめた。
彼の体温に、いや、それ以上に流れ出る黒い魔力に心地良さを感じる。
「ノクス……」
そのとき、こんなタイミングでリーリエはハッとした。
そうだ。
ノクスだ。
ノクスが魔法陣の魔力を吸ったのだ。
召喚陣だって、彼が魔力を吸収して消してしまったじゃないか。
どうして今まで気づかなかったんだろう。
魔法塔の故障しがちな魔法陣の機構。さっきだって、天空資料室の、消えるはずのない黒い魔法陣が薄くなっていた。
大変だ。ノクスに私の魔法塔をなかったことにされてしまう。
「リリ?」
リーリエは涙をふいて、ノクスに向き直った。
「ノクス、よく聞いて」
「うん」
「二人で一緒に住みましょう」
「え、そ、それって……」
ノクスは口篭り、顔が真っ赤になった。
「森に家を買うわ」
「リ、リールヒェン」
きっぱりと宣言するリーリエに、
ノクスは乙女のような潤んだ瞳で頷いた。




