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フリードリヒは「リーリエがイライラした時用に」と、彼の氷魔法で作った霜柱と蔓薔薇のオブジェを置いて去った。いつもより規模の大きな物だ。
彼はこれを作ったために体内の白い魔力を使ったのだ。
素面に戻ってさえあの言い草。
リーリエはすぐに踏んで壊そうと思ったけれど、折角なのでペン先で氷の薔薇に「フリッツ」と刻んだ。
氷は天空資料室の魔法陣の制約によって保存された。溶けず割れず、冷たいまま資料室を彩るのだ。
「良いオブジェを貰ったわ」
細部まで緻密に表現された美しい造形。フリードリヒが帰ってきて、この氷像を私が保存していると知ったらどう思うのか。
きっと深くは考えないだろう。
「言ってくれたらもっと上手く作った」なんて、人の気も知らず笑うフリードリヒの姿が浮かんで絶望する。
……何をやってるんだろう。
履きなれないかかとの高い靴。アキレス腱から血が滲む。
じくじくと痛む足が、リーリエの感情をざらつかせた。
感情がごちゃごちゃするのは、きっと疲れているからだ。
リーリエはよろよろと立ち上がり、資料室を出て、階段をゆっくり降りる。
誰にも会わないように外階段からおりて塔の裏に出ると、ノクスが立っていた。足元には相変わらず黒い魔力が這い寄っている。
「リーリエ?」
また誰かに手を引かれたのだろうか。今のリーリエには咎める気力もない。
ノクスはリーリエに駆け寄ってきた。
「可愛いドレス。綺麗だね」
リーリエはビアンカの言葉を思い出した。
塔が息苦しい。
優しいから、断れない。
思い出したくないのに、クルクルと何度も頭を過ぎる。
「クシャクシャの、子供っぽいドレスよ」
いつになく力のないリーリエの言葉に、ノクスは心配そうに彼女の手を取った。リーリエの黒い魔力がほんの少しだけノクスに吸われた。
「どうしたの。嫌なことあった?」
ノクスの優しい声に寄りかかりたくなる。ノクスの手を握り返し、でも恥ずかしくてリーリエは俯いた。
ノクスのもう片方の手に、本が握られていた。
「それ、」
「ああ、これ。リーリエが置いてったから、持ってきたよ。魔導書」
はい、と手渡された魔導書が、今はずしりと重い。
この魔導書はそもそもフリードリヒに貰った雑記帳だ。戦争の最中、彼の力になりたい一心で、魔法陣を書きまくった。黒い魔力の魔法陣の方が何倍も強力だったから、この本はリーリエ以外誰の目にも白紙に見える、奇妙な魔導書となった。
この中には攻撃魔法、防御魔法の他に、この本が汚れないように、壊れないように、無くしたら自分を呼ぶようにと、当時のリーリエが考えうる魔法陣を駆使して保護してあるのだ。
彼がくれた物だったから。大事にしたくて。
「あり、がと」
リーリエの声が掠れた。
心配するノクスの前で、リーリエは魔導書を開いた。
「何も書いてないね」
ノクスがぽつりと言った。リーリエは、手がブルブルと震えた。
「え、嘘」
ページを捲るリーリエ。ノクスの目にはどのページも白紙に見えた。
そして、リーリエの目にも。
「どうして、どうして?」
後ろの方には消えかけの魔法陣の跡。
すり替えられた訳ではない。
震える手が滑り、本が手から滑り落ちた。風にパラパラとめくれる魔導書を呆然と見下ろすリーリエ。ノクスはしゃがんで魔導書を取り、埃を払ってリーリエに差し出した。
「これ、雑記帳だったんだね」
「うん、そう。そう、なんだけど」
魔導書の百合の装飾、金の箔押し。革の装丁が、すこし汚れていた。
落としたからだ。
リーリエの涙が本に落ちた。革張りの装丁に、涙が滲んだ。
「リリ?」
思わずノクスは彼女を呼んだ。
フリードリヒが呼ぶように。
リーリエは涙が溢れた。
「ノクス、ごめん。今日は、屋敷に帰る」
震える口を手で隠し、嗚咽を堪えてノクスに背を向けた。




