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「自分と相手との間の空気を集めたり広げたりできるって想像する。ふんわりした想像じゃきっとダメで、本当にそうなってるって錯覚するほど信じる事が大事」
ノクスとビアンカは同じソファで、対面するように背筋を伸ばして座った。
お互い、背もたれ側の足は折りたたんでソファに置いているので行儀は悪かった。
「それで、その空気がどんな状態の時に相手がどんな状態になるか見るんだ」
説明を終え、ノクスはため息を吐いてビアンカを見た。
合っているかも分からない、説明したこともない話が、ちゃんと彼女に伝わるのだろうか。
ビアンカの顔にはなんの感情もなかった。
彼女はコーヒーを一口を飲んで、たっぷり時間をとってから言った。
「精神論ね」
つまらなそうにノクスを見てくるビアンカ。説明は彼女のお眼鏡にはかなわなかったようだ。
「別に、信じなくてもいいけど。俺はそうしてるってだけだし。それに寄ってくる人がいなくなる訳じゃないけど」
剣呑なノクスにビアンカは生暖かい目を投げかける。
足はもうソファの下で揃えられている。
「何にしろ抽象的すぎるわ。もう少し説明のお勉強してきて」
ノクスは肩を落竦めた。
このままでは自分はフリードリヒに捧げられてしまう。
「・・・このまま俺がリーリエと逃げるとか思わないの?」
炭酸水の最後の一口を飲み干すと、ノクスは試すようにビアンカを見た。
「思わないわ。あの小娘ちゃんはフリードリヒと祖国を飛び出して、この国を作って塔まで立てたのよ。貴方、勝ち目ないわ」
ケロリと言ってのけるビアンカに現実を突きつけられぐうの音も出ない。
リーリエがフリードリヒを好きなことはノクスも知っていた。彼女がその恋を諦めようとしていることも。
王はどこぞの姫と年内に結婚すると聞いているので、ノクスは彼が早く結婚して末永く幸せに過ごすことを祈っていた。
「その能力、小娘ちゃんに使っちゃえばいいのに」
「それじゃあダメだ」
ビアンカの提案に思わず返してしまう。ニヤニヤと笑うビアンカからノクスは赤い顔を背けた。
「それじゃあ、リーリエの心は手に入らない」
「まぁ。ロマンチックな事」
ビアンカは興味無さそうな感想を言って、コーヒーカップを引き寄せた。
優雅な所作でカップを持ち上げるビアンカに、ノクスは力の制御の真意を問う。
「フリードリヒの心が欲しいから?・・・ブランシュ」
「えっ!?」
ビアンカは思わずコーヒーをこぼしそうになる。
「私の名前を、憶えていたの?」
「仇の名前くらいはね」
恩人かな。と言って悔しそうにノクスは笑った。
ビアンカはノクスを見た。在りし日の名に記憶が過ぎる。
―――
カタルナでは聖女ともてはやされ、その実誰も自分を見ていなかった。
傅かれるのはいい気分だった。
不自由がなく、欲しい物が手に入る。
しかし、自分と仲のいい人間からダメになっていって、最後には国が傾いた。
後に残ったのは、傾国の魔女という名前。
でも、罪には問われなかった。
尋問官が来ても、何日か話すと無罪になった。誰も彼も、ビアンカに近付くと壊れてしまう。
初めて召喚された時は、何が起こっているのか、自分でも理由が分からなくて怖かった。
最初に住んでいた故郷では普通に暮らしていたのだから。
召喚が、彼女から全て奪った。
「フリードリヒは、好きよ。一緒にいてくれるし」
遠い目をしてビアンカが言う。
「キスしても、私の事好きにならないし。名前を呼んでくれる」
「全く共感できない」
渋い顔をしてノクスは言うが、ビアンカは困った顔で笑った。
「ちょっとね、好かれるのに疲れちゃったから。丁度いいの」
貴方のことも、割と好きよ。そう言ってビアンカはにっこり笑った。
「キスしても好きにならないから?」
「ふふ。そう」
言って、ビアンカはノクスを抱きしめた。
ノクスは不思議な気持ちになった。
お互い気持ちが少しも動かない触れ合いがあることを知らなかった。
胸を押し当てられても嫌悪感が起きない。
「本当にすごい」
ノクスは思わず声を漏らす。
「ね、感動でしょ」
スキを突いたように、ビアンカはノクスに軽くキスをした。
「ほら、お互い何も感じないでしょ?今はそれが嬉しい」
うふふと笑うビアンカを、今は少し可愛いとノクスは思った。
翻弄されて、生きるのに必死で、でも善人じゃない。そんな所も自分と似ているとノクスは思った。
ずっとまともなまま理解し合える人間。
そう感じた途端、ノクスは初めて人間とキスしたような気がした。
「君とは、キスしたくない」
顔を背けるノクスに、ビアンカは笑った。
「口紅付いちゃったわね」
笑うビアンカ。
「拭けば取れるよ」
俯くノクス。
ビアンカはハンカチを出し、眉間に皺を寄せたノクスの口を拭いてあげた。
ビアンカはエルディフィアに来て初めて気の抜けた顔をした。




