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フリードリヒに指摘され、リーリエが慌ててノクスの外套のボタンに手をかける。
「ああ、ごめんねノクス、私の魔法陣が効きすぎちゃったみたい」
リーリエに手伝われ、バツが悪そうに肩をすくめながら、ノクスは外套を脱いだ。リーリエが丹念に描き込んだ三つの魔法陣がノクスから離れる。
「……ふぅ。少し、楽になった……」
「ごめんね。でも、言ってよ」
「ガッカリさせたくなくて。ごめん」
そんなやり取りをしながら、ノクスが外套を畳もうとわずかに腰を浮かせた、その時だった。
馬車が大きく左へ傾く。石畳の窪みに車輪が嵌ったのだ。
「あ……っ」
重心を崩したノクスは、抗う術もなく正面に座るフリードリヒの方へと倒れ込んだ。
どさりと、男同士の重みが重なる。
咄嗟に伸ばしたフリードリヒの手が、ノクスの細い肩と、熱を帯びた薄い胸に押し付けられた。
(――っ!?)
フリードリヒに、凄まじい衝撃が走った。
それは単なる接触の衝撃ではない。
服越しであるはずなのに。
フリードリヒの心臓の奥深くから血管を逆流し、皮膚を突き抜けて何かがノクスに流れていく感覚。
リーリエの目にだけ映る。フリードリヒの体から黒の魔力がノクスに流れた。
甘い。
毒が回るような、どろりとした蜜が広がるような。
焦がれるような、抗い難い悦楽を伴った感覚が、フリードリヒの理性を一瞬で白濁させる。今まで感じたことのない、溺れるような甘い感覚。
「っ、ふざけるな!」
フリードリヒは弾かれたように、全力でノクスを突き飛ばした。
「……っ!」
ノクスは馬車の壁に背中を強かに打ち付け、小さく呻く。
「ちょっと! やめて!」
リーリエが怒りに頬を染め、倒れ込んだノクスに手を伸ばそうとした。
しかし、それよりも早く、フリードリヒの筋張った手が、リーリエの細い手首を万力のような力で掴み取った。
「そいつに触るな!」
「いっ……! 何よ、急に!」
鬼気迫るフリードリヒの形相に、リーリエは息を呑んだ。隣に座る聖女ビアンカは、扇で顔を隠し、冷ややかな驚きを含んだ目で王を見つめている。
フリードリヒは二人を背後へ追いやるようにして立ち上がり、狭い馬車の中でノクスと対峙した。その背中は荒い呼吸で上下している。先ほどの「甘い感覚」への恐怖で体が熱い。
「貴様……何者だ。今、私に何をした」
射抜くような王の金の瞳。その奥には、敵意と動揺がせめぎ合う。
一方、魔法陣の熱源から解放され、壁に寄りかかって呼吸を整えていたノクスは、とろりとした黒い瞳をゆっくりと王に向けた。
「それを、あなた様が言いますか」
その声は、先ほどまでのひ弱な渡り人のものとは思えないほど、低く、剣呑な響きを帯びていた。
「今、私に何をしたと聞いている。 答えろ」
低く神妙な声を絞り出すフリードリヒに、ノクスは酷く心外そうに、微かに唇を歪めた。
「何もしていませんよ。私はただ……座ろうとしただけだ」
そして、ノクスは動き出した。
リーリエにもビアンカにも、王の背中が邪魔でノクスが見えない。
ノクスは泥のように重く、しかし優雅な動作で、片手をフリードリヒの顎へと伸ばした。
先ほど、王がリーリエにしたのと同じように。
「……っ!」
得体の知れない恐怖と、再び襲いかかるであろうあの「甘い毒」への予感に、フリードリヒは総毛立つのを感じた。
「触るなと言ったはずだ!」
王は飛んできた手を強引に叩き落とす。乾いた音が馬車内に響いた。
「酷いなぁ。どうしたんです? そんな顔して」
ノクスは叩かれた手を見つめ、ふふ、と喉の奥で笑った。
王の背に隠されたリーリエには、今のノクスの顔は見えない。
けれど、フリードリヒだけは目撃していた。
潤んだ瞳の奥で、底の見えない暗闇が、愉悦に歪んで揺れているのを。
ノクスはフリードリヒだけに聞こえるようにそっと囁く。
「陛下、そのような顔を、リールヒェンには見せたくないでしょう」
「リール、ヒェン、だと?」
フリードリヒの拳が震える。
可愛いリーリエ。
そんな愛称をこの男に許しているのか。
白い魔力が満ちているはずの王の体が、魔力も持たない男の一言に、屈辱を刻まれていた。




