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馬車の中は、一瞬にして冷え切った沈黙に支配された。
馬車が石畳の上を規則正しく揺れる音だけが、やけに大きく響く。
車内には重苦しい静寂と、それとは対極にある甘い香りが満ちた。ビアンカの香水だ。
しかし、リーリエは彼女の体から絶え間なく溢れ出す、白い魔力にこそ酔いそうだった。
リーリエはノクスの隣に座り、彼を気遣いつつ浮き足立っていた。
ビアンカがいるこの馬車の中は白い魔力で満ちていてほとんど黒い魔力がない。ここにある黒い魔力は、自分とフリードリヒの中にあるものだけだ。
(聖女から出てる白い魔力が体に入って気持ちがいいわ。でも、ちょっとクラクラする。人が沢山吸い込んじゃうと良くないのかも。)
(この白い魔力、やっぱり体内の黒い魔力を外に押し出す性質はないんだわ。フリッツの体の黒い魔力、減ってないもの)
新しい発見が多くて、リーリエの目は興味でらんらんとしている。
リーリエはビアンカにこれ程近寄ることは滅多にないのだ。
聖女である彼女の瞳を見つめ、彼女の魂まで覗いてみたい。彼女から溢れる白い魔力の源泉を探りたい。
そんな気持ちを、リーリエは胸に置いた拳の中にきゅっと隠した。
許可なくまじまじと見るのははしたないのだ。
「……陛下、お疲れではございませんか?」
不意に、ビアンカが鈴を転がすような声で囁いた。
彼女は向かい側に座るリーリエたちの視線など最初から存在しないかのように、隣に座るフリードリヒの腕に、自身の細い腕を絡めた。
「今日は朝から大聖堂の式典にお付き合いいただきましたもの。お身体が凝っていらしてよ」
そう言うと、ビアンカは金の刺繍が施された袖から滑らかな手を取り出し、フリードリヒの肩にそっと置いた。そのまま、耳元に顔を寄せるその唇に、フリードリヒの白金の髪が触れそうだった。
その距離は、王と聖女のそれとは明らかに一線を画していた。
「……ああ、少しな」
フリードリヒは拒まなかった。むしろ、リーリエへの苛立ちを紛らわせるように、ビアンカの腰を引き寄せ、彼女の頭を自分の肩に預けさせた。
二人の間に流れる、恋人のような、あるいは王と寵妃のような濃厚な空気。
リーリエはその光景から目を逸らすことができず、胸の拳を震わせた。
今まで、自分が隣にいることが当たり前だった。
自分が彼の服の乱れを直し、自分が彼の疲れを労ってきた。
けれど今、その場所には、自分よりも遥かに完成された聖女が収まっている。
(……あんなにベタベタして、はしたないわ。陛下も陛下よ、だらしないんだから)
心臓の奥が、焼けるように痛い。
それは、魔法陣が暴走した時の熱とは違う、どろりとした不快な熱だった。
自分でも気づかないうちに、リーリエの唇が不満げに尖る。
その棘を含んだ視線に気づいたビアンカが、視線だけリーリエに向けた。
その琥珀の瞳には、勝利を確信した女の傲慢さが宿っている。
「あら、公爵様。そんなに怖い顔をしてどうなさいました? ……ああ、そういえば陛下は以前仰っていましたわ。リーリエは私の『自慢の娘』のようだ、と」
「……娘?」
「ええ、貴方様もそうなのでしょう?お父様が女性と親しくしているのがお嫌なのね?」
ビアンカはわざとらしくフリードリヒの頬に指を滑らせた。
フリードリヒは否定せず、ただ面白くなさそうに窓の外を眺めている。その沈黙が、リーリエの胸を鋭く抉った。
「娘」扱い。それが彼の今の認識なのだと思い知らされ、視界が滲みそうになる。
その時だった。
「――っ」
横でずっと黙っていたノクスが、小さく息を吐いた。
彼は顔を真っ赤にし、苦しそうに自身の胸元を掴んでいる。
「ノ、ノクス!? どうしたの?」
「……ごめん。すこし……少しだけ、熱くて」
リーリエは反射的にノクスの肩を抱き寄せた。
ビアンカとフリードリヒに見せつけるように、という意識がなかったと言えば嘘になる。
けれど、腕の中に伝わってきたノクスの熱は尋常ではなかった。
「……暑い。リーリエ、これ……ごめん」
ノクスがのぼせた瞳でリーリエを見上げる。
その潤んだ黒い瞳と、今にも消えてしまいそうな危うい熱に触れた瞬間、リーリエの中の「嫉妬」は一気に吹き飛んだ。
「ノクス、熱かな・・・」
リーリエは咄嗟の魔法は得意ではない。
うっかりノクスを氷漬けにしてしまいかねない。
リーリエはちらりとフリードリヒを見た。
彼は氷魔法が得意だ。
フリードリヒはリーリエの無言の訴えに眉を寄せ、憎しみを込めてノクスを睨みつけた。
そしてつい、と指を回した。フリードリヒの口が、周囲に聞き取れない呪文を紡ぐと、ノクスの頭上からハラハラと粉雪が舞って彼の頬を冷やした。
「……おい、その馬の骨の外套を脱がせてやれ。暑気にあてられている」
微笑むリーリエにふんと鼻を鳴らして見せ、フリードリヒは指示を出す。
「え、でも外はまだ寒……」
「いいから脱がせろ。見てみろ、そいつの首筋を。汗だくではないか」




